コンピューターに置き換えられるのは
IT技術の発展、パソコンの発展により、今後、近いところでは5年、はては20年後の世界において、人の仕事がパソコンにとられる日が来る、という。
だが、「今やることが、コンピュータのやり方が定型化している事」や「置き換えられそう」な事が置き換えられるというところが基本中の基本であり、「パソコン自身が、隣のパソコンに何をやらせようかとゼロから考える」というところに、急になるわけではないのはもちろんの事。もしかすると、50年後は出来るかもしれませんけどね。
違う言い方をすれば、「どうやればコンピュータに置き換えられるだろうか」と考えられていないところや、「今のコンピュータに置き換えられそうにないところ」は、当然ながらそうそう簡単には乗っ取られない。
できるだけ早く、とか、できるだけ回数を、といった繰り返しで価値を生み出すようなところ、今は手作業だけれど、簡単すぎて、誰にでもできて…といった、いわゆる特殊技能を要しない所や、繰り返し命の部分においては、人から置き換えられるであろうと言う話。
しかし、こうした話が流布し、それによって恐怖を感じている人は、いずれ、「今やっている作業」が、コンピューターやロボットに置き換えられるかもしれないという不安を抱えていると言う事。明確か否かは別に、何となくの不安におそわれているという事。
これは大きく2つの事から来ている。
一つは、「今、コンピューターができることは何か?」という理解のない事、すなわち無知が生み出す恐怖。知らないことは恐ろしい。怯える他ない。だから怖いと遠ざけ、近寄らないようにする。と言うのが一つのやり方。ただし時代は容赦なく進み、「あちら」の方から近づいてくるのが常。だから、逃げ回るのではなく、彼らにこちらから歩み寄り(学び、特徴を勉強し)、むしろ彼らのウィークポイントをきちんと理解していくことこそが戦略。己(の長所)を知り、敵(の短所)を知れば、百戦これ危うからず。
もう一つは、自分が今行っている価値をただしく理解していない事。その仕事にどんな価値があるか、その行動に今後とも価値が付き続けるのか?そうした理解がなければ、その仕事を続けていってよいのかどうか判断出来なくなる。
もしも、その仕事が今、誰かによって置き換えられるなら、当然、コンピュータのみならず、より安い人件費、工賃のものに置き換えられる事だろう。そこに自分と言う付加価値をどのように足せるのかを見極めなければ、そこにい続ける事は危うい。
反対に、自分としては当たり前にできている事でも、他人から見ると、「いや、あれはあの人にしかできない」と言う事もある。自分自身の理解のみならず、世間の中での自分と言うポジションをきちんと理解することが大切な事。
だから、あなたの思うあなたの価値は、「あなたが思い描いているあなたの価値」ではなく、「他人から見た相対的なあなたの価値」が、あなたの価値。
もちろん、自分がもう誰からも尊敬されるような孤高の人である場合、その両者は一致することもあり得るけれど、一般人においてその二つは、普通かなり乖離している事が少なくない。
そしてこれからは、その価値が、マシンによって模倣され得ぬ価値という第三の価値基準によっても判断されうるようになると言う風に理解をするべきではないか、ということ。
学び続けなければならない日は続く。