偏らずに真ん中で…

すべての意見を自分の正しいポジションとして持つのが難しい時代。

誰かの意見に賛同するかどうかを求められる時代。

1か0か
極端にどちらかに寄れとすごまれる。白黒つけると迫られる。
いや、ある面は確かに賛同するが、その賛同する人が持つ別の側面では違う意見なんだが…という意見は聞く耳を持たれない場合がある。
そこに決断し続けるには、すごい努力がいる。
 
多様な選択肢を用意するがゆえに、一側面だけでは判断できないことが増えている時代。
 
では何のためにそうまでして物事を単純化させようとするのか?
たぶん大きな理由の一つは「効率化」のため。それに乗るか否かで、すべてがパッケージ化される。選択肢を用意しない事による手間を省き、究極に効率化をめざし、安く、効率よく。
 
では何のために効率化するのか?
それは、そうして「そこを効率化する」ことで、それによって得られた高効率の利得を、他に振り分ける余力にしたかったのではないのか?…というのが、ある意味のお決まり。
しかし現実にそんなことはあまり起こっていない。そうして「そこで効率化された」ことにより生まれた利得や余力は、それを生んだ者や組織、グループに還元されることが多く、世に広く流布されないことが少なくないのを、多くの人が体感として味わっている。企業の内部留保は高まっても、庶民の生活レベルが改善した実感が低い、などというのはこの1つ。とはいえ、大企業トップの給与は、諸外国並みに引き上げられていたり。
 
なら、そもそも「効率化」する必要はない。ハッキリできないモノに白黒つける必要もない。結果としてそれが大多数の自分たちの幸せに寄与していないなら、判断できないということ、白黒つけられない事自体をもっとアピールするべきではないのか?ダレが?マスコミ?
 
多様な働き、多様な職種、多様な幸せを許容できない社会は、裏返せば、誰かが定義した、決めた、「幸せ」に乗っかるしかなくなるのではないか?
 
白黒つけられないことがそんなにまずい事なのか?
そうではなく、進められない事、停滞している事がまずい事ではないのか?
でも停滞を打破しようとすると、効率が下がり…。
バランスとしての決断が取れないまま、全体がズブズブと沈んで行く気がしてならない。