旅行先での食事から
仕事柄、土地に明るくない場所に行くことがある。となると、ランチをどうするかは結構切実な問題。せっかくいつもと違う場所にいるので、チェーン店では味気ない。コンビニも避けたい。が、ハズレも引きたくない。
旅行で地方に、外国に行ったところで同じこと。
こんな、ランチやディナーの選択肢。もうめんどくさいやと、コンビニで済ませることもなくはない。それはある意味まだましな方だ。
最悪なのは、選択肢がない事。
それが美味しいとか美味しくないとかは二の次。食べたくないものであろうがなかろうが、それしか選択肢がない。さらにそこに、食べないともう動けないくらい疲れているなんてのが重なると目も当てられない。
こう考えると、選択肢が存在することの大切さはよくわかる。悪い中でも何かの違いが、選択肢がある事で、自らが決め、自らで進んでいく力を出さざるを得ない。
何らかの選択肢がある場合、不味くとも、これよりはこちら…という、ある意味での決定権がこちらに委ねられているということ。究極の選択…が無いわけじゃないけれど。
さらにさらに、食事が問題、の場合はまだいい。
政治や、課題解決のための解において、選択肢がない場合は最悪だ。だからこそしっかりと対案を用意する事が欠かせない。
他がなければ、それは事実上、逃げ道がないということ。それを選ばないわけにはいかないし、選ばずには前に進めない。だからそれを選ばざるを得ない。
さらに、少なくとも今の日本において、政治家はほとんどの場合選挙で「選ばれた」人という事になっている。…が、そうして選んだリーダーが提示している選択肢は何か?解はまともなのか?そんな選択肢しか提示できないリーダーを選んだのは、間違いなく「我々」なのだから!
と、こんな言われ方までする現在。
だがそれだって、リーダーを「選ぶ時点」でまともな選択肢がなかったのではないだろうか?
要するに、人材の層が薄っぺらで、本当に頼りたい人とか、本当に信頼を置ける人はひとにぎりもいないのだろうと言う裏返しなのかもしれない。
いやいや、そういう力を持つ人がいたとして、昨今のように、あまりに意見の違いが大きいことを取りまとめたりする仕事は、対価に見合っていないのかもしれない。
将棋や囲碁と同じで、その「場所」や「ポジション」、「政策」、「意見」は一つしかない。良いものを宣言したほうが、実践した方が「勝ち」だ。良いのを取られたら、先んじられたら、言わなかった、やらなかった瞬間に負けが決まる。
ほんと、選択肢がないのがつらい。
それはひいては、日本そのものが、選択肢をなくしていることにつながっている気がしてドンヨリしてしまうのだけれど。orz