まるで見えない糸に

・今日、いつもと違うこのかばんを選んだのは、荷物が多いから。

・いつもと違う経路で会社に向かうのは、人身事故で電車が遅れたから。

・昨日と違うこの上着を着てきたのは、昨日より暑くなりそうだから。

・いつもの梅干しではなく、焼き鮭のおむすびをコンビニで選んだのは、味に飽きてきたから。

 

…などなど、どうしてその行動をとっているのかという裏には、大なり小なり、何らかの理由がある。それはとてもつまらない理由かもしれないし、大事な理由に裏付けられているものもあるかもしれない。当人が意識せずしてそうしているかもしれないし、意識には上らなくとも、深層心理で何かを避けた結果が、その行動を生んでいるかもしれない。

 

でも外見から見れば、それは一つの行動。Aさんの行動とBさんの行動は、外から見る分には同じに見えても、その裏に潜む理由については、全く違ったものを背景として動いた結果、“たまたま同じ行動”に結びついているだけかもしれない。

だが、多くの場合、「同じ行動」は「同じ理由」に裏付けられていると理解されがちとなる場合が少なくない。

 

 

 

選挙で一票を投じる。自分の思い描くぴったりの候補者は見つからないまでも、なんとか折り合いをつけて票を投じる。それは、消去法で残った結果かもしれない。いやいや、積極的にその候補者の公約に惹かれたからかもしれない。だが、どちらもカウントとしては同じ一票。

そうして票を多く集め当選した者は、“当選した者が想定していた理由が指示されたのだろう”と認識しているんじゃないだろうか。部分的にしか認めず仕方なく入った一票も、全面的に認めた一票も、おなじ一票。

 

別に選挙に限らず、いわゆる「多数決」というのは、なぜなら…となるその“理由”を議論し、戦わせ、その合理性や正当性、帰結点を探る行為という要素が多分に含まれているはずだ。そうした議論の最後の締めくくりとして多数決という帰結を迎えるはずなのに、議論も早々に、数の力を誇示する場というやり方にしたがる人が多くないだろうか?

 

その決定方法が内包する真意を、私もきちんと誰かに教えられた記憶はない。ついつい「見かけの結果」をもとめて、決を採ろうとする行動に走りがちになる。がしかし、本来の民主主義が内包しているものは、議論を戦わせ、お互いに考えをめぐらせ、相手を知り、己を知り、突き詰めることにこそ意味があるとされていたんじゃないだろうか。

 

違う言い方をすれば、そうして“考えること”こそが一人一人に与えられた力であり、考える事自体を放棄した瞬間に、それは権力や数の力を既に持つものに支配されかねない危うさを許してはいないだろうか。

 

「行動で示せ」と言う言葉を聞くこともあるのだけれど、それではその行動の理由をうまくコントロールできるものに翻弄される。本当は「“理由を誇示できる行動”で示さなければならない」ような気がする。

 

モノによっては必要なことは理解するものの、「走りながら考えること」ばかりを推奨してきた日本の多くのビジネスの現場だけれど、狡猾なやからは、そうした「行動」に、うまい自分の「理由」という冠をかぶせるのがうまい。

それが“あなたの理由”と合うのか合わないのか、きちんと見極められないと、単なる手先に成り下がる。