容量なんてしったこっちゃない

アナログ家電時代、本格的にハブになる商品と言うのはなかった。

そもそも、映像機器、音声機器など、信号によって取り扱いが異なることから、すべてを総括的に扱うことは不可能。さらに大容量コンテンツを収納できるようなメディアコンテナ的な素材もなかった。高々テープで数時間分の映像、音楽が記録できるにすぎなかった。

 

デジタル家電時代 黎明期

技術の中身の置き換えに過ぎない。アナログでできていたことがデジタルでできるようになった。が、やはりコンテンツコンテナはまだ貧弱であったし、音声データ、映像データのフォーマットも不統一。さらにそれらをコンバートできるほど、CPUもパワーは持ち合わせず、メモリーも貧弱だった。

 

成長期

しかしデジタル機器には強い味方がいる。ムーアの法則だ。CPUパワー、メモリーパワーは数年おきに倍々に容量が増えたり、性能が上がったり。それに同期する形で、音声、映像データフォーマットも規格化が進む。

最初はCD1枚60分をMP3にコンバートするのに60分以上かかっていた時代もあったけれど、今やCD1枚数分かからずにMP3にコンバートできる。

さらに、記録媒体としてのメモリーメディア。HDDの容量が、初期は数百メガで数万円だったのが、数ギガで数万円、今や数テラで数万円だ。メガからギガ、ギガからテラで、約1000倍だということを考えれば、恐ろしいスピードでの価格破壊だ。

 

成熟期

そして今や、覚悟過程にあるコンテンツの容量は、多分数テラ。写真が何千枚とか、音楽が何百曲なんていうのは、普通に持っている人が多数。爪の先ほどの大きさのメモリーカードに64ギガなんていうCDの100枚分に相当するような容量が扱える世界になっているという実感を持たずして、みんな、コンテンツを扱っている。

 

巡航期?衰退期?

そしてこれからは、それらコンテンツを手元に置くのではなく、ネットの向こうに保存すれば?という考え方を進めようとしている。となると、手にするためには向こうから手元に持ってくる必要がある。記録するには手元から向こうに送り出す必要がある。通信回線の太さや信頼性があって初めて成り立つ世界。

 

と同時に、手元にコンテンツデータを持たないことで、今までの感覚と違うことが起きうる世界。

たとえば、書籍の場合、書籍データ“の閲覧権”を持つことで、必要な時ならいつでも見たいところで見られるようになる反面、例え権利を持っていたとしても、所有者のの側の都合で閲覧不可能にすることも可能になる。

 

形が変わることで、考え方を変える必要がある。それがそれまでの生活に沿っているのかいないのかを、作る側のみならず、ユーザーの側も認識していなければならない。

 

なんだけど、一般の人たちの多くは、そんなことを考えたことがない人がほとんど。容量なんか気にしたことがない、以前との違いなど知る由もない。

 

知らなければ知る者に良いようにあしらわれる可能性があるんじゃないかな。