気にかけてほしい私

赤ん坊が悪戯をする、ちょっかいを出す。それは、僕の/私の方を向いて!、私の相手をして!、というサインだったりする。

 

これがいつまでも満たされないと、小学校に入っても、あるいは中学になっても悪さをしようとしたりする。ちょうど夏休みのこの時期。近所のお祭りや盆踊りなどで、爆竹をならしていたりするのは、たぶんこうした、ちょっと構われが足りなかった子たちじゃないだろうか。

 

承認欲求。それは、私を認めてほしいということ。認められる内容は別に何でもいいことがほとんど。だがそこで、特段誰かより秀でた力や能力が見つけられない者たちは、歪んだ形でなんとか気を引こうと、悪いことに走る。ルールを破ることは、誰の気にもすぐ止まる。

承認されたいということが、とりあえず気を引く、気に留めてもらう事にすり替わったり、そこで止まってしまったり。

 

こうした悲しいことにならないように、せめて小学生のうちに、一度はクラスでその子が認められる機会を作るのは無駄ではないはずだ。それこそ、「世界に一つだけの○○」政策をしてきているんでしょ?いいところはどこか?見つけてあげるのは重要なミッションじゃないだろうか?

 

あまりに全員を同じ具合に、心太のように押し出した生徒を作ることに流されていないか。時に一つの事に秀でた誰か、そうした個性の集団があってもよいのではないか?

それは、社会の在り方そのものに対する認識の仕方。みんなの考え方次第。

 

得意な何かを持つ人たちで満たされた社会がどうなるのか。言ってから形になるまで、たぶん10年以上の時間がかかる、こうした遅行性こそが、この課題のネックかな。みんな、即効果が出ない事には手を出さない、出せない風潮に。

余裕が奪われすぎてるんだよ、必要以上に。