相対、絶対、比較対象

絶対的「美」があるなら、もうそのほか何が出てきてもそれを凌駕できない、と言う意味だけれど、こう考えただけで「それはあり得ない」のは想像に難くない。となると、それは「絶対」評価ではなく、結果的に相対評価でしかないということに。

 

相対的とは、今想像できる「何か」よりも優れているということ。それは、「部分」かもしれないが、往々にしてあるのは「バランス」だったりする事が少なくない。

 

ABテストで判断できる、という判断の仕方がある。しかしこれにしても弱点がないわけではない。これで「絶対的な評価」を得られるかと言うと、そうとは限らないでしょ。なぜならサイクリックに循環している関係性がある可能性が考えられるから。

じゃんけんの「グー、チョキ、パー」のようなさんすくみの関係性の場合は、それが出る順番によって、たとえば「グーとチョキ」がでると「グー」が勝ち残り、次に「グーとパー」で「パーが一番強い」となるように見えるが、最後に出たものが一番勝ち残るだけの話というのは誰が考えてもわかる事。

 

もちろん、すべての事象をすべて同時に対峙させたり、対決させることはムリなので、事実上「それが一番(に見える)」という事はあり得る。だけれどそれはその瞬間の、ある種、局所的な一番でしかなく、全地球上の、全世界の中の…などと言うのは実現不可能。それは何かの枠組み、たとえオリンピックでさえも、ね。

 

ただ、だから「どうでもいい」わけでもなく、だから「判断できない」とあきらめる必要もない。より良いものを求める事、より良くある事を望むことはよいことだし、それこそが人間という文明を支え、発展を下支えしてきた原動力にもなっているのは事実。

 

ただ昨今感じるのは、その認められる差異に「大きな差分」を望みがちな事。もちろんそんな大きな差異や価値が、発見されたり実現されたりするに越したことはないが、現実にそれは相当に難しいこと。そんな大きな違いを望まなければ、日々の生活の中においてさえ、昨日より少し良かったり、先週よりもちょっと成長しているモノや事はあるはず。

誰と比べるのでもなく、過去の自分と比べ、何か成長していれば、何か良くなっていれば、すべての人にとってそのような状況が生じていれば、地球全体が良い状況に向かっていくはずでしょ。もちろん現実には戦いもある、いざこざもある、イデオロギーのぶつかり合いや、思想信条の違いもあるだろう。それでも昨日よりよい明日を。さっきよりちょっといいこれからを。絶対的なものでなくてもいい。以前の自分と比べればよいではないですか。