節約の行方

景気が上がらなくなって久しい。いや、経済指標的には上がっているところもあるのかもしれないが、私の実感としては、この10年、景気が上がっている感覚は何もない。

 

とは言え、物価はじわじわ上がっている感じがしている。というのも、スーパーなどで今までと同じ製品を買っても、明らかに内容量が減少していることを感じるからだ。

昔なら同じ中身で100gだったところが95gになっていたり、10枚入っていたものが9枚になったりして、見かけ上のパッケージはさほど変わっていなかったりするものの、明らかに中身は減っている。世間では「ステルス値上げ」と呼ぶらしい。

これに伴い給料も、若干なりとも上がればいいものの、それは全くない今、景気が冷え込むのは当然のこと。

 

となると、勢い節約に走らねばならない家計はうちだけではないはずで。となると、あちこちチマチマと節約技が出てきたり、今まで購入していたものをやめたり、回数を減らしたり。

 

と、もちろんこれで構わないのだが、さて、ではどこまで「我慢」しなければならないのだろうか?これ、意識されているだろうか?

別にこれに限らず、やみくもに施策を進めるのは大変痛手が大きい。なぜならば、ある意味できるところは無限にやりつくせ…といった実施の仕方が少なくないからだ。

だがしかし、こうして「目標値」を設定しないのは日本ではよく見ること。これには意味というか、メリットもある。万が一やってもやっても効果が出るほどの値に達していなかったとしても、努力してやってますよね…という「行為のみ」が称賛されることで満足できる…と信じている人がいるからだ。だがこの書き方でお分かりの通り、効果が出せる値に至らないのであることが明確になるならば、そもそも「このやり方以外のほかの方法」を模索しなければならないかもしれない、進展していないのだ。だが、目標値が設定されていなければ、それは決して明確にはならない。やった事だけで結果が出ていない事を満足していていいのか?

それに対して、達成すべき目標値が決まれば、やったことによる効果、結果を明確に示すことができる。さらに目標値がある利点は、「その目標値が達成できるなら、それ以上の努力をする必要がない」ことだ。いわばリミットが見えるということ。それを超えて以上にやり続ける必要はない。

 

節約活動は、たいてい不便になったり、苦しみが伴うことが多い。だが、無限にやり続けるのではなく、「ここまでやっとけばお役御免だから」と我慢の限界が見えれば、それは努力しようというモチベーションにもつながる。

日本は…と大きく構えるつもりはないけれど、やると言ったらずーっとやり続けるとか、個人に過剰に努力を強いすぎではないだろうか?であるからこそ「もう俺は無理」とか、個々にズルをしたり、抜けだしたりすることによる不公平も生じることに。結果的に壊れていく人や組織が皆さんの周りに無いだろうか?そう、目標値が設定されていないことに、「それをやる努力すら、個々人に責任転嫁」し、結果的に「責任意識が高い人」ばかりが損をしている社会ではないかと思うのだが。

 

極端な話、それに気づき始めた人から、どんどんと無責任になり始める。無責任社会が広がらないか?すでに個々人の経済環境は結構厳しい。倫理的行動を順守して自分が不利になるのなら、自分くらいは多少ズルをしたい…と思う社会になっていないだろうか?