自縛

縛られると、動き辛くなるのは当然の事。であるにもかかわらず、自分で自分を縛り始めている状況が見えない時がある。それは、その「縛っている縄」が見えにくい、見えていないからかもしれない。

 

その言動が、その一言が、徐々に自分自身を縛り始めていることに気づけていなかったら。

もちろん、自分を縛る、戒める必要はあるだろう。倫理的、道徳的にある程度縛るのは、結果的に社会的に住みやすい世界を作ることにつながるわけで、望むところでは有る。

だがそうしすぎる事で、違いがどんどんと拡大されると、その違い自体が自分を脅かしかねなくなる。となれば、違いに対する寛容さが徐々に下がり始める。
許せる違い、許容度合いが下がっていくで、不寛容な世界が広がる。ちょっとした違いに対しても許されざる世界が広がり始めることになる。不寛容であるから規範が厳しい世界、ルールが厳しい世界、そう、厳しい縛りがある世界。とくに最近の日本、ネットの世界に、その不寛容さの静かな広がりを感じる。

 

ネット以前のずっと昔から言われ続けている最たるものが、放送業界における「言葉狩り」だろう。放送禁止用語などという形で、放送業界の人間でなくとも、一般人でも知っている。

 

だが、そうして使えなくなった言葉が出てきたとしても、その「使えなくなった言葉で表されているモノ/コト」が実際になくならない限り、事象を表す言葉は必要になる。

そうした言葉や行動に抗うかのように、セクハラといった言葉が当たり前になったり、LGBTといった新たな言葉が生まれて来ているのが現在。

 

そう、「言葉だけ狩る」だけでは意味がない。ただ単に自分を縛る、言葉だけ縛ったとしても、その事実は厳然と存在している。逆に縛る事だけで安心したり、見ないようにして逃げていたりはしないのか?縛るべきはそこに潜む「不寛容」であり、「不寛容」にこそ「不寛容でなければならない」という事実。

何を縛るべきなのか、何を戒めるべきなのか、言葉なのか、行動なのか、思想なのか。