分からないから
能天気な人がいる。「分からなくても誰かが教えてくれる。だから自分では学ばない」という人がいる。ある意味正しい。だがある意味、大間違いだろう。
その人にとっては、世の中は、基本的には「知っていることだらけ」の状態だ。だから、誰かから、どこかからの「分からない情報」が入ったことをもって、「分からないアラート」が発令する。だが焦る必要はない。それは「その人に聞けばいい事」だからだ。
だがよく考えてみよう。私も含めて、「分からずとも何となく使っている言葉」はないだろうか?そんな人に「それなに?」と聞いて答えられるだろうか?
小さい子、それも3つか4つ程度の子供との会話がその顕著な例だろう。「それなに?」の応酬でかれらは知りたい事を突き詰めてくる。大人はタジタジだ。だって、「きちんと知らない事」を追及されることで、自分がわからない事がさらけ出されるのだからたまったものではない。そう、子供はみんなそう。彼らは「知らない」という事を武器に、どんどんと攻め立ててくる。逆に言えば、それこそが人が人たる所以であり、「知る事」「学ぶ事」が人生を支える礎になっているという事。
にもかかわらず、多くの大人は「分からない事」に目を閉じて対処する。それは、そうすることで効率を上げたり、事なかれ対処でやり過ごすすべを覚えたという事だ。
たしかにそれが必要な場面はある。だが、いつかどこかでそれを思い出そう。
自分の心のどこかにためておけば、いつかはわかる日が来ることもある。まずいのは、「知らない事」を「知っているつもりになってしまう事」ではないだろうか?そう、知らないことは知らないと、堂々と言えること。恥ずかしい事ではない。だって「本当に」知らないのだから。「知ったかぶり」をして後でばれるのと、どちらが恥ずかしい?