使い切る

日々の生活をしていると、〇〇が切れた/使い切った、というシーンは時々出てくる。マヨネーズ、カラシ、ワサビ、ケチャップ、ドレッシング…といった調味料。歯磨き粉やシャンプー、石鹸のたぐいもそうだろう。

 

モノを使い切るのは、その中身がなくなったときか、そのモノ自体が壊れたとき。中身がなくなるのは分かりやすい。

壊れたとき…っていつというくらい、最近のモノは、なかなか壊れないモノも増えている(半面、使い捨てというくらい、簡単に壊れるようなモノも他方には存在しているのだが)。

皆さんのご自宅の、テレビ、エアコン、冷蔵庫、洗濯機、掃除機…は、「壊れて」から買い替えるというよりも、そろそろ新しいものに…ということの方が多いのではないだろうか?それくらい、そうそう簡単には壊れない。

 

…であるがゆえに、一度壊れてしまったり、不具合が出ると途端に厄介になる。なぜなら、それが日常の一部に入り込み、自分の生活の一部であり、それがないことでとても不便になる、生活の一部が壊れるからだ。

 

最近私のアナログ腕時計が壊れた。もう何年も愛用していたもので、メンテナンスもしていた。それが突然遅れだし、数日間は時間合わせをして使えていたものの、ある日を境に、竜頭をまわしても時刻合わせすらままならなくなった。たぶん歯車が摩耗してしまった可能性が高そうだ。

 

腕時計が壊れて買い替える…などというのは、ついぞ私の周りでは聞いたことがなく、不便な日々を過ごした。長期の使用で愛着もあり、結果買い換えたがなかなか捨てるに忍びない。

デジタルガジェットなどは、演算能力不足や、バッテリーがお釈迦になって使えなくなることはよくある。が、物理的に経年劣化により壊れた装置を久々に体感した私。次は何が壊れるだろう。

 

どこかで誰かが書いていたなぁ。購入者の寿命より、LED照明の寿命の方が長い人もでてきた…と。

ピークの限界

昔々、子供のころ、動物図鑑などを見ていて、一番速く走る動物はチーター、なんてのを見て興味津々。時速120Kmで疾走するなんてことが書いてあり、テレビでそのシーンが出てきたりすると、「はぇーーーー!」と驚嘆。

 

だが大きくなるにつれてわかってきたことは、チーターは、「ずーっと時速120Kmで走り続けられるわけではない」という事。瞬発力としてのそれは、たぶん何十秒とは持たず、獲物を追い詰める数秒間で最高速度を出して、そのほかの時間はそうそう速くは動かない。

 

動物に限らず道具も同じで、例えばメカ物も同じこと。最高出力はどれくらいと書いてあるとしても、ずっとその最高出力を出し続けていると、そのメカは早々に劣化したり壊れたりするもの。ピークの力は「ここぞ!」という際にのみ使う力で、通常運転はその7割や6割程度で回すもの。

 

であるにもかかわらず、最近の「仕事」現場の回し方は、現場の「人」を、ずっと最高効率/出力で回し続けようとしているように見えるのだが、皆さんの周りはどうだろう?もちろん、人もマシンも同じこと。ずっとそんな最高効率が続くわけもなく、そんなことをすれば燃え尽きたり、壊れたりする。

残業規制は結構だが、頭の悪い資本家は「ならずっとその規制ギリギリいっぱい(最高出力)の範囲で」使おうとしがちだ。

 

車の運転で、「平均時速」という概念があるように、人の効率にだって、「平均値」が存在するはずだろう。ただ、効率を一律に測る手法が存在しないから、無謀者が無限にあげようと強いる。働かされる方としてはそんなには上がらないと諦めが入る。それを見て、だから上がっていないんだとさらにあげさせようとする。たぶん一律的に「効率化」を見える化できない以上、今後もずっとこの観点で、働く側と働かせる側とで対立し続けるのだろう。

 

 

ある飲食チェーンの応募を拝見してびっくりした。「みなし残業80h」。月ぎめの給料には、あらかじめ、80時間の残業時間分の給料が入っていますよ…ということ。とすると、基本給与がいくらで設定されているかは推して知るべし…。

日本は明らかに二極化しつつあるよね。総中流なんて言葉、今の30代以下にとってはどこの楽園?状態か。

 

 

効率と安全の先に

昨今のビジネスでは、特に日本企業はリスクを取れなくなってきている。

リスクを取るためには、今までにない何かに挑まなければならない。だがそれは確実では無いため当然リスクをはらむ。が、そんなリスクを取るためには、万一それによる「心配事」が起きたときに、そのまま「はい、さようなら」と終了するわけにはいかないために、予備の費用や、予備の日程を持つ必要がある。

そもそも今の現場において、その時点で、「そんな予備は持てない!」と中止が叫ばれる。

 

リスクが取れないから、それは自分たちではできなくなる。でもそのリスクを取って生み出せるほどの価値がないと、自分たちが生きてもいけなくなる。でその結果は?誰かにそのリスクを押し付ける。たとえば、アウトソーシングしてみるという事。

もちろんそうなると、自分たちのところでは、リスクマージン分の費用や期間が含めなかった取れなかった。となると、そうしたアウトソースされた会社側が、なんとかそれを形の上でねん出する。それは、「期間短縮」や「単価低減」という手法で。

 

結果的に、ピンハネ企業が増えるばかりで、ピンハネレイヤーが増え、その中間搾取で生き延びる企業が増えていく。そんな搾取企業が生み出す価値は???
それがなくなるだけで、日本は相当に「効率のいい」会社が増えるんじゃないだろうか?そもそも「真の価値創造を担っている企業」が激減していることこそが問題。

今の時代に合った、今の価値を生み出す企業。それが生み出せなくなったら、さっさとつぶさなければ、社会全体の効率を下げることに寄与するのみ。古い、稼げない業態にこだわる企業が生き続けられることこそが問題だ。

 

最も安全を考えるのなら、ビジネスをしなければいい/押し付ければいい…なんて会社!つぶれちまえ!リスクの取り方が分からないなら、やめちまえ!ごまかしてんじゃねーぞ!搾取してんじゃねーぞ!

正しくない会社を、正しくつぶすことさえできれば。あそことかこことか。いくつも思いつくという事自体がおかしく無いですか。

 

 

いつも全貌は見えない

私がいつも見ている景色、それは「私の前」にのみあるもので、他の誰かがこの全く同じ景色を共有することはできない。と同時に、誰かほかの景色も共有することはできない。とするなら、いつも僕らに見えているもの、それはいつも「一部に過ぎない」ということ。

それを、当人の見えている範囲、知っている範囲の情報で、何とか対処する、処理しようとする。

 

その際、

「知っている/見えている事、これが事の全てだ!」

と思って動くのと、

「いや、それでも見えていない/分かっていない部分に、いったい何があるか分からないぞ」

と意識した上で、決断、行動することには、大きな違いが生まれるだろうことは当然だろう。

 

だから、いつも、誰にも全貌は見えない。僕らそれぞれが見ている、見えているのは常に一部でしかない。それを意識できたうえで、いかにより大きな視野に広げるか、広げるための努力をするのか?それがたぶんコミュニケーションで、それが共感だったりするのだろう。

いつも全貌は見えない、そして決して、全貌が見えるようにはならない。努力したところで見えるようになるのは、いつもより広い「部分」、より多くの「部分」でしかない。

でもそこであきらめたら終わる。

 

言論が敗北するとしたら

今、ネットがこれだけ普及したことにより、本当に誰もが自由に言葉を発することが可能となった。言葉を発するコストが下がった時代。

…であるがゆえに、簡単に、裏付けなしに、心の赴くままに、情動に流されるままに、言葉を垂れ流すこともできる時代。

それによって、結果的に「言葉」が持つ力が力を失い、誰もがそんな不確かな、落書きと同レベルの言葉を発する場何て意味がない…と、結果的にその「場」の価値が下がり始めているのを感じる今日この頃。

 

「場」とは、その「場」の価値を上げ続ける、保ち続ける活動があって初めて価値が担保される。何の苦労もなく、いつまでもその価値を保ちつつ、そこにあり続けるというものではない!ということは、どのくらいの方が実感しているのだろうか?

 

日本人は特に、「自由」に関する価値を低くみすぎだと言われている。欧米では「勝ち取ってきた、自由」であるがゆえに、それを守ろうとする力が働いていることを、端々に感じることがある。が、それに対して日本では、「どこにでも当たり前にある、それが自由」と感じている人が多いような気がしている。

 

その言葉の自由、(人が持つ権威に依らない)言葉の力が、相対的に弱まっていないだろうか?結果として、権力のある者の言葉、権力を持つ者の力が、相対的に強まっていないだろうか?

 

言葉の力が弱まれば、言論が敗北すれば、僕らはどんな世界に叩き込まれるのか?それ以外の力を持つものだけが生き残る、例えば、お金や権力者のみが生き残る、そんな者たちの言葉だけが意味を持つ、そんな時代でいいのか?