正しき評価

アニメ業界。毎シーズン毎シーズン、なん十本の新作アニメが作られている事自体に驚嘆するのだが、であるにもかかわらず、業界として、そこで働く者が報いられているにはかなりほど遠いであろう状況を伝え聞く。安い、ブラック企業といった話を耳にする。それがそうした業界。

 

であったとしても、そこに夢を抱き、そこに飛び込んでいこうとする者もいる。さらに、そんな実情をマズイと考え、是正しようと動いたものもいる。事実、あるアニメスタジオは、きちんと正社員として雇い、賃金環境、労働環境を整えることでより良い職員を獲得し、非常にクオリティの高い、世界に通用する作品を生み出すことに成功したところもある。

 

しかしそれでも、そうした組織があり続けられるのは、そうした良いアウトプットが出し続けられるが故。それが続けられなくなるであろうことが見えてきたりすると、組織が解散したり、消えていくのはどの業界でも同じこと。

 

ただし、その企業が、「今はお金がないけれど、お金さえあれば…」といった、今は発揮できていないけれど、ポテンシャルとして実力を抱えていたら。それに気づいた金持ちが乗り込んでくると、業界の様相は一変しがちになる。

そもそも、ポテンシャルはあったので、それを回転させるためのエネルギーとなる「資金」が導入されれば、一気にブーストする可能性があった。そのエネルギーたる資金を誰かが投入する。いける!アウトプットが出る!すごい!…と良い方に回転し始める。

ただしその状況になってしまっては、もうその資金を投入した者/企業の独占に近い状況になるだろう。それまでその組織が、会社が持っているポテンシャルを、正しく社会的に評価してこなかった、お金を投入してこなかった者たちは、新たにお金を投入することができる機会すら失い始める可能性が高まる。

 

ポテンシャル、実力、これを正しく評価したものだけが、それらを動かす力を持ち始める。であるからこそ、物事は正しく評価していかなければ、結果としてその業界には入り込めないのは当然の事。

 

しかし多くの人、組織は、「その人が思うように、その組織が思うように、評価したがる」もの。しかしそれを動かす原動力となるのは、「正しく評価されているか」ということではないか。

 

 

クリエイティビティ

仕事柄、日々の仕事をきちんとこなすことと、今までには想像もできない価値を生み出すことの両方に接する機会がある。今日はその後者の話。

 

今まででは想像もできない価値を生み出すということは、言い換えれば、今までの価値基準では測りきれないという事のはず。…であるにもかかわらず、その「将来において想像もできない価値を生み出す何か」を採用するかどうかの基準として、「今ある測定基準で合格しなければならない」と言うところが、やはり多くの組織における大きな課題になっている。

 

「今ある測定基準で合格する」という事は、少なくとも今の延長線上においては、今あるなかで上位に位置する価値、と見いだせるという事を意味する。だが、価値観を破壊するような大きな転換においては、「今までの基準では理解できないからこそ意味がある事」こそに価値があるはず。

しかし、「今までの基準では測れない」と言うのは、そもそも全く意味がないというものと、全く理解できないという事の両側面を持っている。

 

そう、「理解できない」ことをもってして「意味がない」と理解しがちだという事。

 

しかし、ある種の真の価値はそこに潜んでいることがあり、「理解できなくても、それは、今の私であるからであって、将来的視点に立てばどうなのか?は分からない」という可能性に触れることができる決断者がいれば、そこで審議の対象に引っかかりえる。

 

ただ、昨今のようにすべて効率ではかられる日本において、そもそも「成功確率」が高いことばかりを選択しているようでは、当然ながら、そんな(その人においては)博打のような決断はまず無理だろう。こうした決断は、余裕があるところにしか生まれない気がしている。余裕ある資金、余裕ある期間、余裕ある市場、今ある事で手一杯であれば、誰もそれに手を出さないし、手を出せない。だから、ある種の「起爆のための余裕」を残しておかなければ、発展も、変革も、生まれえないはずではないのか。

 

今の日本では、大人になれば余裕を搾取される、搾り取られる状況にある。人に依っては学生のころからそういう場面に身を置いている人もいるだろう。そこでどれだけ自由にふるまえるか、さまざまな価値と触れ合うことができるか。クリエイティビティの源泉が枯れつつあるのではないかということに危惧している。

 

 

 

 

宿題の本質

多くの学校で夏休みも今日で最後。宿題が気にかかる人もいるだろう。

夏休みがとっくに終わった大人もいるだろう。家族サービスに忙しくて、結局へとへとと言う人もいれば、この長期の休みに、いっちょ勉強するかと仕込んだ本を読みこんだ人もいるかもしれない。人によっては上司から、ちょっとこれ勉強しとけ!と言われた内容もあったかもしれない。

 

と、ここで改めて考えたい。

「宿題」は何のためにあるのだろうか?

 

出される方からすると、めんどくさいとか、やりたくないとか、やって何になるんだ、意味あるのコレ?等々、いろいろと文句があるモノがたっぷり。小学校や中学で、漢字や英単語を10回ずつ書くなんてのもあったかと思うけれど、これに何の意味があったのか…と思っている人もいるんじゃないだろうか?

 

ただ、宿題を出す方からすると、ここできちんとやっておかないと、繰り返しその知識をインプットしておかないと、忘れるよぉ、覚えられないよぉ、わからなくなるよぉ…。だからせめて、宿題をやることで、きちんと思い出しておいてよ。せめて記憶の片隅にとどめておいてよ…といったところだろうか。

 

ところで、もしも当初習った授業が面白ければ、その学びに興味を持てていれば、さらにその先が知りたいとそこで思えていれば、それを知っていることに価値があると感じていれば…。たぶん、「宿題」などを設定されていなくとも、自分で始めるのではないだろうか?

 

そう、もしその学んだことで「その先が知りたい!」とか、「どうなっているのかな?」とか、自分で興味を持てていれば、そしてそれを学ぶ術を助けてくれる人がいれば、たぶん自分から学び始める。
もちろん、小学校程度の小さい時には、どう手を付けていいのかわからない。だからこそ周りの大人が、適切な本を与えたり、時には図書館や博物館に連れて行ったりする。その一つ一つのやり方を見て、覚えて、あとは勝手に成長していく。最終的に教えるべきは、適切に学び続けられる方法。これこそが学びの本質じゃないかな?

 

とは言え、周りの大人でそこまで考えてくれる人がいるのは恵まれている人で、場合によっては大人の方でも知らなかったり、意識していなかったり。
ただ昨今はと言うと、大人よりも子供の方が数段上で、自分でネットを調べ、Youtubeで映像を引き出して、自分で学習できてしまう。興味を持てば垣根は非常に低くなっている、そんな時代。

 

であるからこそ、興味を持てた人とそうでない人との格差はどんどんと開きがちになる。それをみんな一律に底上げしたい、せめてここまでは上がっておいてもらいたい…時にやるべき最低限だと出題側がイメージしているのが、たぶん宿題。 

 

社会人になったら、「これだけやっておけば安泰」なんて課題はなくなっちゃうんだから。そう考えると、宿題「さえ」やっておけば良い身分ってのは、ほんとうはすごくありがたい身分のはずなんだけどね。でも、たぶんすべての子供が大人になってこそ、これは分かる話なんだけどね。

さぁて、夏も終わるぞ!

 

閉めてる事情

地方はもちろん、都会でも少し寂れた地域に入ると、シャッター通りなどと言った商店街などを目にすることがある。場合によっては、昼日中は全くやっていなくとも、夕方から店を開けるような飲み屋もあるだろうけれど、外見から見て、まぁここ半年くらいはずっと開いてないだろうというお店も山のようにある。このそれぞれの店の事情は同じなのか何なのか?

 

我々的にわかりやすい想像はと言うと、「あぁ、ここ、なかなか儲からないのかな」という事。お店を空けていたところで、人通りもまばらだろうし、家賃に対して売り上げは厳しそうだと言った想像はすぐにできる。…が、本当にすべてがそうなのか?

たとえば、実はもう蓄えもできたので、お店などと言う面倒なことをやる必要がない、特に新しい借り手の話もないので、閉めているだけだ…という事情もあるかもしれないではないかと。

 

それが田んぼの中の一軒家で店が閉まっているということと、繁華街の中で店が閉まっているという事を、もちろん周りの事情に左右されるだろうけれど、見た目だけで一律に理由を自分で決めてしまう事の方がある意味危ないのではないのか?

 

もしも、本当に蓄えが十分で店を閉めたとするならば、それは閉めた当初に「次の商売に切り替わる継承のシステムがうまく動いていなかった」ことが問題で、そうしたシステム構築を怠ったばかりに、結果として寂れた場所、人の集まらない場所を作ってしまったのかもしれない。

 

…というくらい、以前の日本の人口が増加しつつあるフェーズという事自体が、経済を回す自然のエンジンであった20世紀。でも21世紀になり、その自然のエンジンが回らなくなれば、当然ながら人為的になにか回してやらなければならなくなっている。その仕組みや力、お金をうまく投入し続けなければ、人為的に回そうとし続けなければならない、もちろんどこかで回転は止まったり。
物理的仕組みと同じで、いったん「止まってしまったもの」を、動かし始めるには、実は大きな力が必要。さらに「反対に動き出してしまったもの」に対しては、止めるための力と、そして正常な方向に動かす力となれば、それはそれは莫大な大きさのエネルギーが必要で。

 

一つの事象を見逃したが為に、そこにうまい仕組みがなかったために、あちこちが止まり始め、錆が浮き、不具合が出始めている。かといって、一斉に「全パーツを取り換える」ことなどできないのが国であり社会システム。回す仕組みに頭を使う人って…政治家には期待が…。

 

欲を消費する力が

モノを欲しいという欲

知識を知りたいという欲

それを体験したいという欲

それを見たいという欲

 

これらが経済を動かし、人をそこに引き寄せ、お金を落とし、経済を回す原動力になっている。だから今までにはない刺激、今までにはない味、今までにはない楽しみ等々、さまざまな事を画策し、集め、引き寄せる。サービスとしてシステム化しなけらば体験できないものもあれば、自然として、そこに行かなければならないものもある。それぞれがそれぞれの立場において、引き寄せる、見たい、したい、食べたい、体験したいを生み出しつづけ、発信し続ける。

 

だが、すでに満足し始めている人が出てきている。決して全員ではないのだが、今のままで満足と言う人がかなりの数を締め始めている。これをどのように思うのかは、たぶん今後の詳細な分析があるのだろうと思うけれど。ただ私はこう思う。「満足、というほどに、他の事に興味を持ったり、他の活動をしたりする時間やエネルギーが、個々にはもう残っていないのではないか?」と。

 

一部の特別な人々を除けば、それ以外の全員が、消費者サイドであると同時に、働き手、モノやサービスを提供する側でもある。そしてその働く側においてここ10年15年の傾向はと言うと、「効率化」がかまびすしい。

もちろん、非常に非効率に回っている事務所や役所などはまだまだいろいろと散見することはある。その一方で、民間企業の多くにおいては、効率化の下で、非常に厳しい労働環境が生み出されている。手間や作業の手順を見直すことによる「効率化」も図られているのだろうけれど、究極のところは、働く時間を伸ばした(残業した)けれどまともにその賃金が払われない事による「効率化」と称する結果が生まれた部分が多かったのではないだろうか?事実その結果として、ブラック企業やブラックバイトといった言葉が横行しているではないか。

 

そうして出来上がったものは、より良いサービス、商品が、より安く…と言うところがほとんどなのだけれど、と同時に、それらサービスや商品を使う、消費するはずの「消費サイド」を疲弊させ、新たなサービスに行くくらいなら疲れを取りたい、豪華な食事よりも、質素でも楽にできる食事…といった方向に推し進めていただけではないのだろうか?と。

 

作る側、提供する側の論理だけで考えている、実行しているだけでは、あたりまえだが消費など拡大するわけもなく、結果として景気の停滞、場合によっては低下を引き起こす。儲けるために使っている資本(たる人々)は、同時にお金を支払ってくれる側でもあるはずが、そこを痛めてしまっては、作ったはいいけれどだれも使わない、使えない、使う気になっていないという事なのではないだろうか?

 

あまり印象のいい言葉ではないけれど、生かさず殺さずで、欲を消費する程度の力を現場に残しておかなければ消費など拡大したりはしない。

労働資本を、消費資本(お金を使ってくれる側)といった両局面で見た分析とか、理論とか、無いものなのかね。まぁほぼ直感的に、均衡するところで回しなさいという結果しか出ようがないのだけれど。