宿題の本質

多くの学校で夏休みも今日で最後。宿題が気にかかる人もいるだろう。

夏休みがとっくに終わった大人もいるだろう。家族サービスに忙しくて、結局へとへとと言う人もいれば、この長期の休みに、いっちょ勉強するかと仕込んだ本を読みこんだ人もいるかもしれない。人によっては上司から、ちょっとこれ勉強しとけ!と言われた内容もあったかもしれない。

 

と、ここで改めて考えたい。

「宿題」は何のためにあるのだろうか?

 

出される方からすると、めんどくさいとか、やりたくないとか、やって何になるんだ、意味あるのコレ?等々、いろいろと文句があるモノがたっぷり。小学校や中学で、漢字や英単語を10回ずつ書くなんてのもあったかと思うけれど、これに何の意味があったのか…と思っている人もいるんじゃないだろうか?

 

ただ、宿題を出す方からすると、ここできちんとやっておかないと、繰り返しその知識をインプットしておかないと、忘れるよぉ、覚えられないよぉ、わからなくなるよぉ…。だからせめて、宿題をやることで、きちんと思い出しておいてよ。せめて記憶の片隅にとどめておいてよ…といったところだろうか。

 

ところで、もしも当初習った授業が面白ければ、その学びに興味を持てていれば、さらにその先が知りたいとそこで思えていれば、それを知っていることに価値があると感じていれば…。たぶん、「宿題」などを設定されていなくとも、自分で始めるのではないだろうか?

 

そう、もしその学んだことで「その先が知りたい!」とか、「どうなっているのかな?」とか、自分で興味を持てていれば、そしてそれを学ぶ術を助けてくれる人がいれば、たぶん自分から学び始める。
もちろん、小学校程度の小さい時には、どう手を付けていいのかわからない。だからこそ周りの大人が、適切な本を与えたり、時には図書館や博物館に連れて行ったりする。その一つ一つのやり方を見て、覚えて、あとは勝手に成長していく。最終的に教えるべきは、適切に学び続けられる方法。これこそが学びの本質じゃないかな?

 

とは言え、周りの大人でそこまで考えてくれる人がいるのは恵まれている人で、場合によっては大人の方でも知らなかったり、意識していなかったり。
ただ昨今はと言うと、大人よりも子供の方が数段上で、自分でネットを調べ、Youtubeで映像を引き出して、自分で学習できてしまう。興味を持てば垣根は非常に低くなっている、そんな時代。

 

であるからこそ、興味を持てた人とそうでない人との格差はどんどんと開きがちになる。それをみんな一律に底上げしたい、せめてここまでは上がっておいてもらいたい…時にやるべき最低限だと出題側がイメージしているのが、たぶん宿題。 

 

社会人になったら、「これだけやっておけば安泰」なんて課題はなくなっちゃうんだから。そう考えると、宿題「さえ」やっておけば良い身分ってのは、ほんとうはすごくありがたい身分のはずなんだけどね。でも、たぶんすべての子供が大人になってこそ、これは分かる話なんだけどね。

さぁて、夏も終わるぞ!