楽しければ勝手に

楽しいとわかっていることは、誰しももう一度やってみたいと思う。

スポーツもそうだし、読書もそうだし、テレビを見るのだって「あの番組、面白い、楽しい!」となるからこそ、次回も見たいと思う。

 

子供、それも物心がつき、言葉が発せられる時期になると、必ず通るこんな時期がやってくる。「これなに?」「どうしてこうなるの?」「なんで?」「どうして?」。

 

まだ何も知らないから、彼らは知りたくてパパやママに聞いてみる。たぶん、「知る事」が面白くないなら、子供はすぐにたずねる事に飽きてしまうだろう。知る事、わかることが彼らには…というか、たぶん「人」にとって面白いからこそ、ずっと続けて聞いてくる。
そんな子供の「知りたい」「わかりたい」という心からの叫びに、両親をはじめとする周りの大人が、最初は一生懸命答えようとするのだけれど、やがて、親自身がこたえきれなくなって、だんだんと「親の方が」疲れてしまう。いい加減に答えたり、適当にあしらう大人も出てくる。でもたぶんほとんどの場合、子供はそれを見抜いていたりするんだろう。この大人に聞いてもわからないんだ。この人はもう教えてくれないんだ。それでもたぶん、その子の好奇心はそこで止まらない。「ナゼ?」の疑問が心の中にたまりつつも、答えてくれる人が周りに居ないという思いを抱きながらだんだんと大きくなる。

 

そのうちに、幼稚園や学校に行き始める。ここでは、「これはこうです!」「あれはああなのです!」と教えてくれる。
やった!また知ることができる、教えてくれる人が現れた!でも、面白い内容もあるのだけれど、そのほとんどの内容は「覚えましょう」という暗記/記憶ものが大半。「こうして解いていけるのです」という、「学びのための手法」を学ぶ部分はほとんどないのではないだろうか?(一部の私学や、一部の優れた?教師は、そういう理念をもって教えてくれる人もあるのだろう。でも大半が、カリキュラムを消化する、覚えさせることを説明するので手一杯ではないだろうか?)

 

「覚える」ことで面白いことも、なくはない。なぜならそうした覚えたことから、おのずと見えてくること、分かるにつながることもあるからだ。

けれど「覚えたところ」で、それ以上どう展開させればいいのかが分からない内容、科目もある。算数や理科などは、覚えることによって「手法」が分かり、さまざまな場面で、そこでのある「答え」を求めることができる。が、それでも限定的だ。たとえば私の場合、国語や社会ではその解き方が全く分からず理解できなかった。いくら漢字を覚えても、出来事が起きた年号を覚えても、それ以上のモノが何も見えてこない。こんな「覚えるだけ」の科目、人によって感じ方が違うのに、答えなんかでないじゃないか。そんな「先生が思っている答えをあてるに過ぎない」授業がとてもつまらなく、正直嫌いになった。

 

でもそれを解く方法があれば、それを知っていれば、たとえば国語を読み解く方法を知っていれば、歴史の説明を理解する方法を知っていれば、どんなふうにそれを理解できるかの道筋が分かり、先生の感性的解答ではなく、万人にほぼ共通するであろう中身がより深く理解できるようになる。そうして「わかる」ことができると、今まで知らなかったことが見えてくる、状況が浮かんでくる。単なる誰もが勝手に感じることではなく、ほぼ誰もが同じ回答にたどり着く方法があれば、いままで「見えない」と思っていたことが「見えるように」なる。目の前にはそれ以前からも存在していたはずなのに、自分の視力が悪くて見えない/ぼんやりしていたところが、クリアーに見えるようになる感覚。その「解つ方法」を知れば、まるでそんな「思考の眼鏡」を得たような気持ちになれる。分かるって楽しいはずなのだ!

 

要するに、それまで知らなかったのは、「考えるための手法/道具」の存在を知らず、そしてその使い方を知らなかったから、見えていなかっただけ。さらに言えば、今までの学習の機会においては、「考える道具を知る機会」「教わる機会」がどこにもなく、「考える道具の使い方」を誰も教えてくれていなかったということ。

 

「その道具」さえ分かれば、どうやって理解できるのかが分かり、どうやって分かっていけるのかが見えてくる。ナイフやフォーク、お箸と同じく、使い慣れることにより生活が便利に、豊かになり始める。

 

会社や学校で、 

「ちゃんと理解しろ!」と言われることはないだろうか?

「どうしてわからないの!」と言われることはないだろうか?

算数の公式などならともかく、そうでないものを理解する「やり方」や「わかるための道筋」が示されることはこれまでまずなくて、その中で出てくるコレとコレという点が、「覚えるべき知識」として示されていたにすぎないこれまで。そこを点を単に眺めるのみならず、「道筋」としてつないで「理解する」のは、自分で工夫してつないでね、という状況だった。

 

でもそういう手法を「理解する道具」として学ぶことができれば。「道具」だから、よりうまく使えるようになる可能性さえ出てくる。そんな「思考の道具」こそ、もっと広がるべきで、できればより早く、若い年齢で習う機会を作るべきで。

 

そうして「わかる方法」「理解する方法」が分かれば、当然楽しくなってくる。自分が楽しくなれば、自分でどんどんやりたくなる。楽しいからこそ自ら学びたくなる。なぜならば、どんどんわかり始め、それによりドンドン楽しくなり、楽しいからドンドン学び始めるのだから。

 

幸運にも、私はそんなスキルを学ぶ機会を得た。

部分的には知っていたけれど、今回はたっぷり時間を使ってそれを実践してみる時間もあった。まだお箸を使い出した最初と同じく、たどたどしいけれど、分かるを引き出すスキルは、同時に楽しいを引き出すスキルという側面を持つ。

そう、楽しいを引き出す道具。

これ、本当に最高じゃないか!