企業と個人

人は、働きながら、その稼ぎの一部を貯蓄することで、万が一の時に使う蓄えを作る。場合によってはそれは「学資保険」という名がついていたり、特に明確になっていないときには、へそくりや、タンス預金と呼ばれる名がつくことがある。

 

「全く余剰がない」というのは、対リスク耐性が低いことになる。たとえば離職に備えてnヶ月分の給与相当分などといった分を持っておく、といったあたりから始まる話だろうか。

 

企業が、万が一に向けての内部留保を増やし、リスクに備える。これによりどの企業も、対リスクに耐えやすくなり、本来なら時代に合わない商売、企業は、延命されやすくなる。その企業が、たとえ時流に乗っていても、いなくても、延命措置がなされることになる。

 

一方、社員の給与はよこばいという現状。要するに、個人のリスク対応余力が企業に搾り取られることになっている様相を呈していることに。それでも個人で全く対策を打たないわけにもいかず、個人なりに支出を絞り、結果消費は縮む。

 

公や政府などは、一部「上澄み」のような調子のよい企業のパターンに合わせて、人事院勧告のもと、給料を調整しているようだけれど、それは日本全体の「トップ」数%にそろえているということに。これ、9割を超える中小企業にそろえてみては?だから公務員にばかりなりたくなるわけでは?

もしもそれが怖いというなら、統計を取っている日本の全労働者、それは派遣も正社員もすべてを含めての「(平均値じゃなくて)中央値」でやってみれば?国会議員とか、公務員とか、中央値の何倍…といった形での給与体系なら、もう少し公務員に向けた風当たり、考え方を変えるんじゃないかな?

 

どっちむいてんだろ、この国は?

結局、そんな大きなことを考える人、それに向けて動く、人々が理想とする政治家のような人はいないってことなのかな。

できないからこそ

できないことを悔やむことはない。とくにそれが「誰がどんなに努力しても、とても大変」だったり、「決してできない」ことがわかれば、それは「できないことがわかった事」が大きな成果になる。

 

たとえば個人認証などがそうだ。

指紋、声紋、虹彩パターン、手のひらの静脈パターンなどなど、それがそう簡単にまねできないからこそ意味がある。

デジタルにおいても、暗号化のカギは、そうそう簡単にまねできないということこそが命。もちろん、データであるがゆえに、総当たりをすれば、結果的にはいつか解が出るのだけれど、それに到達するのに、平均数万年とか、nの何百乗といったけた外れに大きな数字が必要になる時間や空間が分かる事で、事実上できないことを担保する。

 

そう、できないことが「あなたである事」を表し、翻って「ほかの誰でもない」という証拠になるということ。

 だから、本当にできなければ、それはそれで「成果」。

 

でもたいてい、それは誰かによって「できちゃう」ところがむつかしいところ。できないこと、できにくいことを証明し、そしてそのことが利用できるようになること自体が、むつかしいんだよ。

 

要らないものが多過ぎて

毎年の自分の傾向を考えてみると、だいたい11月12月に、ネットショッピングすることが増えている気がしてならない。

 

ここ最近も、週に何個も「段ボール」が届く。それまで我慢していた、考えていたものにケリをつけ、エイヤァで購入ボタンを押している。

もちろん、それで便利になるし、より良いものが手に入るのだけれど、重要なのは、それによって「物が増えること」。

 

一つ増えると、一つ減らす…ということができる場合はまだいい。しかし特に、壊れてから購入しているようでは遅いもの、の場合、壊れる前に購入することがある。これが厄介。なぜなら、次の新しいものが来るのだけれど、前のものもまだ使えたり、十分に稼働していたり…。

とはいえ、「冷蔵庫」や「洗濯機」など、普通の家庭には一家に1台しかないものを購入したら、普通は古いものは廃棄する。だから何らかの形で、やはり新しいもので古いものを置き換えていかなければいけないんですよね…ということか。

 

蔵とか倉庫を持っている人以外、一体どこまで持ち続けるかという事でもあるよね。

あぁ、今年も物がたまってきた。

まずは段ボールの処理から…。

 

 

減らすという選択肢

どうやら昨今の労働者の未来像は、とてつもなく暗い未来予測しか聞こえてこない。

一部の金持ちを除き、たいていは預金などが足りず、死ぬまで働き続けなければならない未来が「計算」されているという。働き続けなければならない未来。

ただ、これまでにすでにリタイヤした人からは、こういう声も聞こえる。

退職したものの、やることがない。何かやることが欲しい。

 

まぁいわばどちらも、ないものねだりに聞こえなくはないけれど、こう考えてみてはどうだろう?

そもそも「今の働き方」が、相当ヘビーになっていないか?ということ。だから、いわゆる60代、リタイア世代になった時にも、その同じ働き方をイメージしていたりするかもしれないが、そこを変えて。

逆に言えば、60代でリタイヤしたら、もうすべてを手放すというのではなく、少しだけ仕事を残しておくことはできないか?という考え方。

 

そう、「やめる」となった瞬間に、今までの「100」を「0」にするイメージでとらえがちだったのでは。けれどそれをやめて「100」を、たとえば「20」に落とすこと。例えばこれなら、今まで週に5日働いていたところを、1日にするということになる。月に30万の給与が6万以下程度でもあり続けるけれど、働く未来。これはこれでありでは?

 

もちろん、これは働く側だけでできることではないため、相互に調整が必要になるだろう。でも、すでに「人員不足」が明らかに見えてきている現在。優秀な人材が、「年齢」だけを閾値にして、ハイさようなら!は実際もったいないでしょ?本当に辞めさせたいの?実はしくみがないだけでは?そう言う仕組みを作った、運営する会社が、認められる、人気になる時代があってもいいはずでは?

 

そうした会社の仕組み、働き方を提案してくる会社から、社会は変わっていきそう。そう、だってデジタル化、離れた形で仕事ができる仕組みが、これだけ技術的に準備されつつあるのだから。

 

 

それは誰が決めること?

あなたの価値、それも対価をいただくような価値は周りが決めること。対価を払う人が、払う人の価値として価格を決めてくれること。それが給料であり、成果に対する報酬。

 

だが、それを行動する、やるかやらないかは、自分で決めること。

いくら高い金を積まれても、やりたくなければやらなくていいし、大きな対価が見込めなくても、自分でやりたければやればいい。

 

ただし、社会人は、日々の報酬をもとにして生活している側面はある。だからその生活を回していくためには、やりたくなくても、めんどくさい内容でもやらなければならないことも出てくるという事実はある。

だが、だからといって「やる/やらない」は自分で決められること。ひもじい思いを我慢してでも、やりたくなければやらなければいい。いくら時間がひっ迫していても、やりたいことはやりたいわけだし、それがどう評価されるかなんて関係ない。

 

「やるかやらないかを対価で決めよう」とするこそ、自分での評価と他者から得るべき評価とをごちゃまぜにしがちに。それこそが混乱の始まりだし、自分でできること、決められることを放棄することにもなりかねない。

 

だからこそ、自分の自由を手にするために、評価されることがやりたいわけだし、評価されるためには、自分が得意で回りが喜ぶこと、周りが価値を認めてくれることを選ばないとね。

決められることを意識して、やることを意識して。