すべてを正しく理解、する…

映画や小説、ドラマなどにおいて、事前に撒いていた伏線をきれいに刈り取ってくれるものは気持ちがいい。あぁ、あれがここでこうつながって…などなど、うまく構成されているドラマなどは、そのこと自体で感動すら覚える。

 

で、思うのだが、本当に自分は「正しく」「すべての」伏線を理解しているのだろうか?

 

実はあれってどういうことなのか?あの意味は何なのか?などなど、語られていないことって多くないだろうか?実は理解できていないことって結構ないだろうか?

自分たちが理解していることは、自分たちが気付いている部分においてのみで、そこはきれいにネタとして回収されているけれど、それ以外のところでは??ということ、ありませんか?昨今は映画やドラマのネタバレがうるさいけれど、そう言ったサイトで自分が見たコンテンツのものを見てみると、えっ、そんなのあったっけ?そんなことやってた?ってことは有りませんか?

 

要するに正しく理解している「つもり」になっているというか、自分が納得した範囲においての理解でしかないことの可能性に気付いているか否か。もちろん、うまい作品であればこそ、そうした形で「満足させてくれやすい」構造になっているわけだけれど、実はここはどうなっているのか?この部分はどうなのか?と疑問を持つことが重要では?

 

わざわざコンテンツごときで…という人もいるだろうけれど、コンテンツだからこそそれがわかりやすい。突っ込みどころを探す練習をするにはいい題材だったりするのではないかと考えている。だって現実は、それを確認できるすべがないまま進んでいくわけで、満足のいくように進めるためには、様々な事に気を使いながら進める以外に手はないのだから。

すべてが理解された、回収された…と思う前に、待てよ…あれってどういうことか?と一度考え直してみませんか?これ、実は人生で結構やくにたつと思うんですけど(笑)。

 

 

事と衝動

「やりたい事」がある人は、割と身近にはたくさんいる。

今度の休みにはあれをやりたいとか、次の連休はこれをしようとか、ちょっと大きな休みが取れたら次はここに行ってみたいとかとか。

だが、そんな「やりたい事」を、いったいいくつ「実行」に移しているだろうか?

 

物事を実行に移すには、その「事」の大きさにもよるけれど、一般的にはいろいろと準備が必要。たとえば海外旅行を考えると、自分ですべてを準備するのか、旅行会社のツアーに乗っかるのか。自分でやるとするなら、飛行機をはじめとして、宿の手配等々、いろいろと「事前に」準備がいろいろといる。ツアーに乗っかればいい…と言っても、会社もいろいろ、プランもいろいろお値段も時期も…と、最適なものを選択肢決断するのは結構大変で、今日思い立って明日…というわけにはなかなかいかない(もちろん、そうして出かける人も知っているのだが)。

 

こう考えると、「事」をイメージしていても、それにつながる「準備活動」があってこそ成り立つというもの。そしてそもそも「何を準備すればいいのか…」といった状況においては、はじまるものも始まらない。

結局、「やりたい事はあるけれど、その衝動だけで、なかなか計画から始められていない人」「実現できていない人」が山のようにいる。これ、丁寧に考えられていないからなのでは?そもそもどこから手をつければいいのかすら描けていない人はいませんか?

 

だからまず考えましょうよ、何から準備すべきなのか?その行動をするには事前にどういった準備が必要なのか?そしてその上で、今すぐ始められるところから「準備活動」をはじめよう。始めるべきはこれだ。いきなり「そのこと」には至らない、し、至れないのだから。

 

本気

オリンピックが終わり(パラリンピックがはじまるのだが)、ひとまず一段落した形で日常が戻ってきつつある昨今。スポーツものの映像コンテンツは、オリンピックに限らず「熱く」させる要素がいろいろある。

 

それはたぶん、すべて「本気」で挑まなければどうにもならない、勝ち上がれない勝負の世界であるからであり、そうして本気で挑んだうえで失敗したり、時には成功したりする、そのドラマがみなを熱くさせる。

さらにそれらに輪をかけて、メディアが(特に日本人選手の)それまでの努力、苦労を掘り下げ、語りだす。それにほだされた見ているほうは、「そんなに頑張ったんだから勝たせてあげたいよね…」とテレビのこちら側で、勝手に力が入る始末。

 

べつにディスりたいわけじゃなく、本気っていいよね、マジって大切だよね、というつもりなのだ。

日々仕事に追われると、すべてに「全力で」挑まなければ対処できない…ようでは、当然ながら体がもたない。であるがゆえに日々少しセーブしながら、万が一の時のための余力を残しながら、仕事にいそしんでいる人、けっこういるんじゃないだろうか?まったく間違っているとは思わない。それはそれで正しいリスク管理、予備の力で不測の事態に備えるという立派な対処方法のひとつ。

…であるがゆえに、なかなか「燃えない」。やり切った感が出てこない人もいるのではないだろうか?何が足りないのか?それは、たまには、時には、マジに120%で対処すること、ではないのか?

 

正直なところ、そんな120%を出し続けなければ何ともならない仕事は、体や心を壊しかねない。だけれど、いつもいつも80%で対処していればいい仕事「だけ」でも、ダレてくるのは事実。

だから、時にマジにならないと対処できないような、突破できないような、そんな状況に、時々自分から飛び込むか、自分でそのような状況を作るかしていかないと。

 

あぁ、時に今の日本の現状で仕事においてそれをやると、万一突破できない場合に評価が下がることにつながりかねない。なので、別に仕事で成し遂げなければならないわけじゃないと思っていただいてもいいかもしれない。趣味とか、日常生活の一部でもいい、そうした「マジ」の時間を作るのみ。

 

本当に本気なら、全てを貫ける。そんな「マジ」感覚を忘れないために。

 

 

いつか、ロールモデルが

自分が若い時には、あんな人になりたいとか、あんなことができるようになりたいとか、そんな目指す人、目指すものがあると、それ自体が励みになり、頑張ろうと思う心ができたり、実際にやり遂げることに結びつくことがある。

 

だが、自分の年齢からもそう感じ始めているのだけれど、たぶん、そのうちに目指すべきロールモデルは消える日が来る。

それが、ネガティブに消える、ポジティブに消える、どちらもあり得るだろう。

 

ネガティブには、もういくら頑張ってもそこにはたどり着けない、そんな風にはどう頑張ってもなれない、「到達できない」という諦めから、それを目指すことをやめる、という意味での消え方。この場合、違う言い方をすれば、目指すものがより現実的に変更される、とも考えられるか。

だがポジティブには、そのロールモデルと全く同じことができるようになったところで仕方がない。私が「私」である意味は何なのか?「私」としての何かを残すとするなら、それはすでにもうある誰かと同じところに至ったり、同じことをしてみても意味はない。それよりも、自分としての何か、自分としての役割、自分としての価値をどう自分の中で形作るか?そういう落としどころ、落ち着きどころが見えてくることで、目指すべき既存の何かが消えていく。そのロールモデルの「隣のポジション」が見えてくる感じか。

 

ある意味、コインの裏表であるともいえるけれど、考え方次第で、実は自分の心の置き所や行動に及ぼす影響は大きく変わる。

 

ロールモデルがある皆さん、ぜひそこへ近づきましょう。近づいて、追い抜く勢いで頑張りましょう。

でもロールモデルがないという皆さん。焦る必要はありません。あなたの存在自体が、すでに存在する既存の何物でもないということ。自分としてなにかを「形作る」事を考え始めませんか?なんでも結構。形にしましょう。モノや事という形もあれば、見えないけれど「仕組み」という形もあります。何を目指すのか、何を残すのか?今はないなにかをつくることそれ自体は、案外簡単かもしれませんよ。それがより多くの人々の役に立つかどうかは、むつかしいかもしれないけれど。

まずは何かを残すことから。

 

 

やっぱり「働かせ」改革

オリンピックも一段落し始め、ようやくメディアも国内事情をまともに取り上げ始めるようになって。ここへきてようやく「働き方改革」のアラがいろいろと出始めたことに気づきはじめ、いろいろとかまびすしい。

 

当初の働き方改革を推進する形で出てきたデータはというと、「裁量労働制」にすることにより、「労働時間が減る」という事を示すものが出てきたわけだ。が、当然実際に実施されるとそんな事になるはずはなく、そのデータの集め方、比較の仕方に不適切な扱いがあることが取り上げられた。

時を置かずして(隠しきれなくなったのだろう)その不適切なデータ自体は認めたわけだ。だがしかし!「改革はこれからも推し進めていく!」との状況。これ、土台としての「労働時間削減」が崩れつつある状況で、それでも推し進めようとすることで、まさに馬脚を露した状況ではないか。要するに「成果が出るまで無限に働かせ続けたい」との思いがそのまま言葉になったとしか思えない状況だ。

 

すでにあちこちで取り上げられ始めているけれど、「裁量労働制」は文字通り、「働く内容自体」に、「自分自身での裁量が行える」からこその「裁量労働制」。だから、去年より手取りが少なくてもいいから楽がしたい…と思えば、成果を上げず給料が減ろうが、楽に働けばいい…という「裁量」が与えられているからこその、「裁量労働」。でもこんな職場が一部の管理職を除き、一般化していますか?この適応範囲を広げる?事実上、ほとんどの職種、メンバーに適応できる?馬鹿じゃないのか?と思う。

今のままなら、いわば、ブラック企業とここ最近言われている企業の働かせ方を、法が裏打ちしようとしている状況ではないですか?裁量など事実上与えられない「ノルマ」を課せられる(これ自体、すでに「裁量」がないのだが…)働き方で、成果を出すまで寝るな、休むな…という状況に。

 

ある意味、国が人口的に、ビジネス的に、衰退するような状況で、それでも以前のように活況を呈したいという拡大、活況路線を展開しようとすると、こうした策しか提唱できないのかもしれない。すでに女性の力を利用できるところも限界に近いのだろう。

 

けっしてこれからも発展しない…などとは言わないが、まず「今の状況/現状」を正しく認識しようじゃないか。人口は減るんだ。労働人口は減少するんだ。それにどのように対処していくのか?それでも今まで通りで行きたいのか、行けるのか?人々が求める幸せは何か?すべてを「少なくとも今までの水準」で維持し続けるために、弱いところにしわ寄せをし続ける現政権がいまだ健在なのは、やはり「支持率」が高いからだろう。で、この流れでいいんですかね?みなさん。