受け取る側に

会社員になると、そこそこの大きさの会社では、それなりに社員教育の機会がある。そんな中でかつて私もコミュニケーションに関する教育を受けた。

 

コミュニケーション。昨今では、新入社員にまである程度期待される力でもあるらしいけれど。この力は組織だって仕事を進める上では、当たり前ではあるけれど非常に重要な力といえる。

だが、じゃあコミュニケーションとはどんな力か?誰かに自分の思いをきちんと伝える力、理解してもらう力とでもいえるだろうか。意思疎通などと簡略化してとらえる向きもある。

 

だが、意思の疎通であればあるほど、「自分の思いが自分の思った通り相手に伝わって」こそ通じたということ。だから、「自分が自分の思いを語ったから」といっても、相手に伝わっていなければ、理解されていなければ、それは意思の疎通が取れていないという事だ。

極端な事例を持ち出せばわかりやすくなる。まだ言葉もわからない赤ん坊とはその内容のほとんどにおいて「意思疎通」できるわけがない。喜んでいるのか機嫌が悪いのか起こっているのか程度しか、疎通できない。それはこちらがいくら伝えたとしても、表情や空気などでしか相手に伝わらないから。そう「相手に伝わったこと」こそが「結果としてあなたが相手に伝えたこと」。これこそがコミュニケーションなどの研修で最初に確認されること。

 

であれば、コミュニケーションにおいて、「受け取る側が悪い」と言っている時点で、もうそれはコミュニケーションではない。それは上から目線において「俺の言うことを正しくくみ取れ」と言っているに他ならない。汲み取る力がないお前が悪い!と。

日本において、それはそれでまた別の言葉がこの1年ほど話題に上がっている。「忖度(そんたく)」だ。これを外国人にどのように説明するかで困っていた人がいたけれど、懇切丁寧に英語で説明したことで、結果的にその外国人として合点がいったのは、こういう事だった。

「そうか、要するにYesマンになれという事だね。」

 

日本はある意味、ひどい状況になりつつあると感じている。それは政治のみならず、いろいろな事件のみならず、あらゆる集まり、組織に巣食っていないか。それらを見たところで多くの人々が感じているのは、「それ、俺の職場にも、俺の組織にも、似たような状況があるんだから」と感じている人がいかに多くいることか…という事なんじゃないだろうか。そしてなおかつ、「…だからもう無理だし」と言う空気が蔓延していることが、憂うべき事態でしょ。

 

景気のみならず、道徳や信頼が崩壊した国は、この先やっていけるのか、本当に心配で仕方がない。

期待したほど長くなかった

皆さんの周りの照明。最初は白熱電球から始まり、その後「省エネ」のために蛍光灯電球、そしてその後にLEDに変わっているところも多いと思う。
発熱を伴うものの、もう身近な照明の多くはLEDに変わり、うたい文句としては「消費電力がお安くなります!」「でも明るさは今までと同じ!」といった感じ。さらに、「電球寿命は〇万時間!」なんてことが書かれていること。

だいたい、商売をしている店舗を除けば、つけっぱなしの電球は少なくて、1日の内、夕方から夜中の6時間だけつけるとすると、30000時間の寿命として5000日、すなわち13年は持ちますよ!というのが店頭での売り文句になっているのを拝見したり。

 

でも、切れるんだよね、思ったほど長く持たずに。すでに車のライトなどにも使われていると思うけれど、切れているLED球を見かけることも。電球の発光体そのものの寿命なのか、それとも電気基盤の劣化なのかは調べてみなければわからないけれど、私の感覚でもそんなには持たないだろうな…と雑談をしていた。

奇しくも、自宅のLEDが切れていることに気が付いた。これは明確に、あの大震災を機に切り替えたものだから約7年ほど前に購入したもの。当時はまだLED球は高価だったけれど、長く持つのだったらという事で購入決定をした経緯も記憶に残っている。

しかし結果的に、7年で交換。以前の蛍光灯の際には、まぁだいたい1年に一度交換していたことを考えると、電気代は別だけれど、さほどお得感もなく、宣伝ほどには交換時期が伸びた感じはしていない。

 

でも、世の流れはLED照明。街の街灯でさえLEDにどんどんと置き換わってきている世の中(結構、光の雰囲気が変わっているところ、ありません?)。こうして、たぶん照明にかかる電気代は安くなっているのだろう。まぁその分、パソコンやタブレットを、以前は考えられないほどたくさんたくさん使う日々にはなっているのだけれど。

 

かみしめる

コンテンツが大量に消費される時代。

テレビの視聴率が以前に比べて下がっているのは皆さんよくご存じだと思われるが、その理由の一つは「スクリーンの数が増えたこと」ではないだろうか。すでに関東地方では、スマホタブレットで映像コンテンツを見ている皆さんがたくさんいる。電車の中で、カフェの中で、ダウンロードした、もしくはオンラインストリーミングで映像を見ている。

 

こうしてコンタクトポイントが増えたことにより、あるシーズンに作られるコンテンツ、ある1シーズンに作られるアニメの数は、明らかに増えてきている。見ている側のユニークな(重なりのない)視聴人口が、そうそう増えているとは思えないことからすると、多くが一度だけみて次へ、という流れが多々あるのではないだろうか?

 

(今もあるにはあるけれど)昔は、再放送枠が明確にあった。平日夕方や日曜のお昼といった時間帯は、以前放送したコンテンツの再放送で埋められていることがあった。しかしこれだけ新作が乱舞すると、再放送枠を確保するのも一仕事。結果として、一度流れてハイおしまい、というコンテンツが多く生まれているのではないだろうか?

 

そこで思うのだ。そんなすべてのコンテンツが、一度見ただけで正しく評価できるのだろうかと。たとえば、すでに連綿と30年以上にわたりシリーズが続いているガンダムだが、最初の本放送枠での視聴率は悪かった。(これは映画ではあるけれど)カルトムービーの名をほしいままにしているブレードランナーも、最初の興行収益は悲惨なものだった。ガンダムは映画化、同時にプラモデルが大ヒットしたのを受けて盛り上がる。ブレードランナーはその後のビデオ全盛時代、映像媒体の発展(レンタルビデオ、LD、DVD…)と相まってカルチ人気に火が付いた。

要するに何回か見直すことにより味が出る、かみしめることで味わうスルメのような映像作品が、今、受け入れられる土壌が、時間がどのくらいあるのか?

 

…であるため、一度目の印象がインパクトがあるもの、濃いものが好まれたり。でも、濃いものであればあるほど、それが続くと「しつこさ」が感じられることにもなる。繰り返しはきつい。美味しい料理は、ちょっと物足りないかちょっと薄味か?と思えるくらいのものが何度も味わうことで滋味深さを感じたり。映像も、噛みしめる、深く考える余地が必要なのではないか?いや、実は今の作品もそうなっている作品が中にあるのに、気づかずにスルーしていないか?

そんな余裕すらない社会なのかな。

 

ますます失敗できない国

日本は、いわゆる学歴社会として成り立ってきていて、いい学校を出て、いい会社に入って、いいポジションについて…と出世コースを歩むというのが、王道のコースだった。そう、すでに「だった」と過去になっているのは間違いない。

すでに学校は、高校進学率は限りなく100%に近づき。大学進学率にしても、定員枠で考えれば、レベルはどうあれ、大学はどこかに入れる「全入学」時代に入ってしまった。

とはいっても、就職ではしっかり優劣を見られるため…と思っていたが、昨今の人手が足りないこの時代。誰もが引く手あまた(というのも実はからくりがあるけどね)という事に。

 

でも会社に入ったら、多くの会社が「減点主義」。何かに失敗したから一つ減点、二つ減点で、結局、「汚点」「減点」が少ないほうが出世する。これ、裏を返せば、多くのトライをせず、いかに無難に歩んできた会社員生活を送ってきたほうが出世する…という事にもなり、すべてそうではないにせよ、毒にも薬にもならぬやからが昇進していく道。

逆に言えば、失敗は一度でもしたら、(加点主義ではないため)決して盛り返すことができない、取り戻すことができない状況になってはいないか。もっと言えば、失敗できる時期には限りがある。余裕がある時期であるからこそ何度かの失敗でも許される。それができないほどに追い詰められると、失敗はおろか、失敗したら後がない…ということじたいが、せいこうかくりつをさげていく。

これは大変なことですよ。一度でも失敗したらハイさようなら…になりかねない。だから誰もが失敗を恐れる。チャレンジしなくなる。

 

そう、本当にチャレンジしてほしいなら、曲がりなりにも加点主義、加点ポイントがある仕組みに変えないと、失敗しても盛り返せるようにしないとはじまらない。評価の仕方が変わらない限り、ここは絶対変わらない。明確に成功を取り上げる、掬い上げる言動、活動があってこそ、それが動機となり組織やチームが動き出す、これらをキチンと評価軸だと宣言し周知する事。

逆に言えば、言葉だけ「挑戦しなさい!」と唱えていたところで、実質減点主義が色濃く残り続けている組織や会社であれば、誰も「挑戦」などしない、いや、「挑戦しているふり」はしても、本当に「意味のある挑戦」になっていることはまずないだろう。

 

すでに、ビジネスは直接的、間接的に、他国と勝負をする時期に。そんな他国において、加点主義、挑戦奨励、失敗を糧としてメキメキ成長する企業と競争していくのに対して、今のやり方で、今の鼓舞の仕方で正しいのか?誰と競争しているのか、させたいのか、リーダーは、役員は、再認識したほうがいいのではないだろうか?

あぁ、それは政治も…(ry

 

自由という覚悟

ネットがこれだけ発展し、SNSが様々に整備され、あちこちで、記名で、もしくは匿名で、自分の思ったことを世間に向けて発言、発信できるようになった時代。その意味ではここ(Hatena Blog)ももちろんその一つ。だからこそこうして自由に意見を書き綴ることができる時代。

 

モノが自由に言えるという事ほど素晴らしいことはない。言論の自由バンザイ!。ただ違う言い方をすれば、そうした意見をきちんと表明しなければならない時代…ともいえる。

 

意見を表明する。これもより詳しくは複数ステップでできており、ある対象に対して興味を持ち、それに対して意見を持ち、その意見を表明できることが必要になる。

これ、かなり「これまでの日本人」にはハードルが高い人、いるように思うのだ。

 

まず興味を持つこと。なんにせよ興味すら持たない人が多すぎる。(その最たるものが政治だったりするわけで…まぁこれは語りだしたらキリがない…)

ある事に興味を持ったとして、それに最初から詳しいわけもなく、その興味を知らべ、学ぶ必要が出てくる。…となればすべてが納得できるわけもなく、部分的に納得いかないところ、賛成できるところ、反対したいところも出てくる。ならば三世部分はいいとして、そこに「ただ単に」反対しても意味はなく。それに建設的に反対するには、じゃあどんなところが落としどころになるのかを考える必要が出てくる。世間は数学的にできているはずもなく、「完全に周りが納得できる回答」は存在しえない。とするならそれをどこに持っていくのか、どこに決めればいいのか?そう、個人的意見であろうと決める必要が出てくる。

 

今までの日本なら、そんなことは決めずとも、偉い人、詳しい人、責任を持っている人が決めて進めてくれていた。けれどそれでは回らなくなった時代、物事が複雑に絡み合い、今までは末端であった人でも、意見を表明し、語らねばならない時代になった。

自由に、どんな意見を述べられるという自由。それを得たことで、逆に意見を「述べねばならなくなった」という不自由。

ものごとは、いいところだけ、おいしいところだけいただこう…というのは、やっぱ無理だよね。