そもそもが、生産性ある議論から

生産性って何ですかね。

ビジネスにとって、価値あるものを社会に生み出し続けること。もちろんこれは求められる重要な要素であり、それを生み出せない会社組織は淘汰されても仕方がないのが資本主義という仕組みだし。

だけれど、そういう構造を生み出し続けられる構成要素、ありていに言えば実力ある人がいることが大前提になっている。そしてさらに厄介なことに、そういう実力ある人を生み出す、作り出す仕組みも、上記のビジネスとして捉えられているという事。

 

その一方で、人はそれぞれ違う。得意なことも不得意なこともある。見たものをすぐに記憶できる人もいれば、記憶が苦手な人もいる。とすると、通り一遍の、画一的な「人を作り出す仕組み」、、これを「教育」と呼んだりするのだけれど、では、それぞれ各個人の力を十分に発揮できるようになる人には育てられなかったりもする。

 

だからと言って、「じゃあ教育は聖地です。そこは無限にお金と時間を使ってもいい事にしましょう」と言い始めると、途端に「教育分野」という組織に属した人々は、誤解を恐れずに言えば堕落し始める。ここだけは資本主義、効率は無視していいんだ…と。

 

だから教育は教育としての視点で、生産性を語る必要がある。それは、それぞれの個性を生かした、「教育としての生産性」を追及していく必要がある。
それとは別に、それ以外の産業は、いわゆる「生産性」を追及していく必要が当然ある。ただし、「教育における生産性」と「産業における生産性」を同一に語ってしまった瞬間に、この議論は破綻を生じる。ではその閾値はどこなのか?というと、それがあいまいであり、線引きができないところで、乱暴なものはほぼ同一に扱ったり、教育重視のものは、まったく相いれないものとして扱ったりもする。

たぶんその両方ともが間違っている。だから双方がお互いに歩み寄る必要が。
でも、それをできる実力が、力量がある人が、日々の仕事に忙殺されている事実。

 

「生産性」という言葉だけが独り歩きしないでほしいな。
こうした「議論」の時点で、「生産性ある議論」をしてほしいな。

 

 

けじめ(ダメだとわかるまで)

自分が本当は何に向いているのか、なかなか探せない人もいる。

自分に向いていることは何なのか、自分が何をしたいのか、「自分探し」をする人たちは少なくない。

 

でもそれだけのために時間を使った多くの人たちが、何らかの正解にたどり着けているかというと、かなり怪しい。結果的に時間が経って、あきらめていった人も少なからずいるはずだ。

 

人生も、仕事も、一生懸命に取り組め!という人がいる。これは結果的には「いつ終わるべきか」を知るために、一生懸命取り組む必要があるのではないだろうか?

ある仕事、ある作業を、自分が一生懸命やったとしても、なかなか成果が上がらなければ、「あぁ、これは向いていないのだな」とハッキリとわかるだろう。

でももし、それに一生懸命取り組んでいなかったら?


それがうまくいっていない「理由」は、自分に向いていないからだろうか?それとも自分の努力が足りないからだろうか?逆に努力すればうまくいくのだろうか?
私を含め、結構多くのものが、ここで努力することに躊躇する。努力してうまくいくことが希望として見えるのならやらなくもないが、暗中模索で努力してもうまくいかないと、それ、完全な無駄じゃないだろうか?と疑問に思うのだ。
だが上述したように、そこで中途半端にダラダラ続けるほうがもっと無駄な可能性も高い。だから、原因を明確にするため、向いているものに全力投球するために、「一生懸命やらなければならない」。

 

その努力が報われず成果が出なければ、向いていないとすぐにわかる。努力が実り始めれば、やはりやる意義があったとみなせる。続けるのか止めるのか、判断しやすくなる。でなければ、中途半端な気持ちで、中途半端な成果で、それがずっと続くのみ。

 

これをシステムとして作り上げたイベントがある。当初の「M1グランプリ」。漫才の頂点を決めるイベントだ。今は改正されたらしいが、当初このイベントは、「コンビ結成10年以内」といった出場規定があった。そう、「10年やっても目が出ていなかったら、それはその漫才に向いていないという事。だからあきらめることも必要だと教えたい」という理念が込められていたルールだ。

 

もちろん、それぞれがそれぞれの人生を歩んでいるのだから、それでもそれを選びたい、あなたの選ぶ道ならば、それもまたその人の人生なのだけれど。

 

 

相手の心に

コミュニケーションが非常にうまい人がいる。それも、自分の考え、思いを相手に伝えることが大変うまい人がいる。そんな人に話を聞いたところ、不思議な答えが返ってきた。

それは、「相手の心の中に絵を描くのだ」と。

 

その人は、何かを話すにしても、特段自分の中で「台本」が用意されているのではないらしい。自分の中に、そうなった状況、そうなっている場面が、映像として浮かんでいるというのだ。だから、何かを説明するときには、その場面、映像の中で必要なものに寄って見て、見えていることを話す。頭の中の場面において、必要な角度から近づいて、その状況を確認したことを話す。だからリアリティーもあるし、具体的に細部まで語ることができる。

 

決まった「言葉」で作られていないからこそ、「見た状況」をそこで言葉にする。だから見方によっては違う見え方をするかもしれないが、当然、一つの映像を多彩な角度から眺めなおしているだけなので、矛盾は生じにくい。

 

もしかすると、これは就活などでも必要なスキルかもしれない。面接官に質問された際にどうこたえるかを「想定台本」として用意し、暗記したことを答えようとしている場合は、それに対する別の質問を投げかけられた途端に行き詰まる。だが、その質問に即した「場面」が、映像として描けていたら、状況として心の中に場面があれば、どのような変化球の質問が来たとしても、見る角度を変えて答えればよいだけの話。

 

いかにして伝えるのか、いかにして話を聞くのか?話し手は映像を浮かべ、聞き手は相手の言葉から映像を構築する。これができると最高なんだが…

 

本当に効率だけでしょうか?

様々な企業で、職場で、効率化が叫ばれて久しい日本の現状。当然「病院」もその例外ではない。保険点数という制度はあるものの、だからといって「病院」だけが、楽に儲けがでるような仕組みにはなっていない。

 

そんなとある病院に…患者が訪れ、自分の病状を診断してもらい、治療を望む。診断の結果、どうやら癌らしいことがわかる。たいていの患者はそうそう死にたくはない。だがそんな中で、

「あなたはステージ〇です。もう治るかどうかはわかりません。」

このような事務的なやり取りで済まされたりしたとしたら、大丈夫だろうか?

 

病院経営が大変なことは様々なメディアが報じている。医者は当然楽な仕事ではない。経営の効率化を強く求められている医者もいるだろう。だが、だからと言って、患者に事務的に、事実のみを伝えるということが、その医師に求められている役目なのだろうか?

 

おもんばかるとか、おもてなしという言葉がある。特に後者は2020年東京オリンピック誘致の際に、キーワードになった言葉でもある。だが今の日本で、「本当のおもてなし」は実践されているのだろうか?さらに言えば、究極に「経済指標の観点からのみ」効率化された職場において、そういった事は実践できるのだろうか?
そもそも、おもてなしやおもんばかった結果という事をどうやって「経済指標的」に測定しようというのだろうか?それがなければそもそも効率化を測る意味がない。となれば、汲々と経済観点から「のみ」効率化を要求されている現場は、おのずと事務的、作業効率的にストレートな行動、場合によっては行いになるのは想像に難くない。誰のためのおもてなしなのか?対経営陣なの??

 

まぁ、よくできた経営者はそれすら飲み込んで、将来を見込んでそうした事ができる「必要な余裕」は必ず残したうえで、モノづくりやサービスに邁進し、結果として、その「必要な余裕」が、よりよいモノづくり、サービスづくりに寄与している企業もあるのは事実。
だが、いったん赤字や経営基盤の傾きが見え始め、そこを削り始めたとたん、もう元には戻れない道が待っている。ましてや、サラリーマン社長にそんな大英断が下せる人は、いないとは言わないまでも何万人に一人くらいではないだろうか?

 

経済的隘路に迷い込んだ日本の行く末がこれでは、当然後に続く後継者も出ず。でも国は新興企業を応援するように見せかけて、本来潰してもよいような企業を救済し続ける。
どこへもっていきたいのだろうか???

 

それには「答え」があるのですか?

本の学校、少なくとも義務教育で教えることの多くが、「問」に対しての「答え」が何等か用意されていることが少なくない。そしてテストでは、その「答え」を覚えているかどうかを確認するテストが幅を利かせている。

 

だが実際に社会に出てみると、どんな課題、どんな問いにおいても、唯一絶対の解が存在することのほうが少なく、ほとんどの場合、多様な解が存在し、そして度の価値基準に沿って選ぶかといった基準も複数存在し、どれかに決断をすることに迷う、迷い続ける日々が続くのが日常。でも、学生時代から「唯一」の解だけを探していたりすると、時に何かを間違ってしまうことになる。

じゃぁどうやって解を導くのか?繰り返しになるけれど、その「解を求める方法」すら唯一の方法があるわけじゃない。だからこそ悩ましい。

 

でもこれは言えるだろう。関係者、関係項目を洗い出そう。特に人に関しては、こうした場合に使われる用語で「ステークホルダー」なんて言い方をするけれど、より分かりやすく言えば「利害関係者」だ。そうこの言葉でお分かりの通り、「利を受ける」関係者はもちろん「害を受ける」関係者も明確にすること。そしていかに双方にメリットを享受させるのか、してもらえる状況を作るのか?それはすぐに受けられるものもあれば、長年にわたって受けられるものもある。見かけ上の利は小さいが長く時間が続くものと、見かけ上の利は大きいが短期のものもあったりする。と同時に、不利益はどれだけ小さいのか?これも考え方は同じだ。

 

唯一絶対の答えはない。まずこれをきちんと理解すること。でなければ、「幻想の絶対解」をさがして、無限にさまようことになる。

だからそもそもそれぞれを「解」と呼ぶほうが間違いなのかもしれない。それらはすべて「今回としての落としどころ」に過ぎないはずのだから。