残すべき記憶
今どきのものはあまり詳しくないけれど、小学校で習うことというのは、習熟別学習方式でもとっていない限り、どのクラスにいてもどの学校にいても、理解すべき量は定められている。中学も同じ。一部の進学校は別かもしれないが、事実上高校もほぼ同じだろう。
違う言い方をすれば、「その年齢の能力において、学ぶべき総量、理解すべき/覚えるべき知識量は、ほぼ等しくコントロールされている」とも考えられるのではないだろうか。
そして、多少の落ちこぼれなんていうレッテルなどもあるものの、ほぼすべての生徒がそれらを卒業していくところから行くと、その学ぶべき量は、その就学年齢において、適切な量でもあるのだろう。
しかし大学に入った瞬間から、それら前提は全く変わる。
そもそも、全国的に統一されたカリキュラムなどではない。教養としての過程をある程度踏む学校もあることはあるが、それにしたって千差万別。さまざまなレベルの教え手がおり、A大学での内容とB大学での内容には、同じ教科名を冠していたとしても、かなりの差が出る。
これが社会へ出ると、言うまでもなくもっと違っている。
そもそも、新しい価値を生み出そうという「その価値を生むという行為」をもってして「対価を受け取っている」はずなので、新たな価値を生む過程がすでに工程化しているものはまだしも、これから価値を創造しなければならないことになっている仕事は、さてそのためにどれほどの作業や苦労が待ち受けているといったことは、何一つ保証されていない。
もしかすると、思った以上にあっさりとできてしまうかもしれないし、予想以上に苦労するかもしれない。それこそ、やってみなければわからない。
「やってみなければわからない」
この時、「やってみなければわからないけれど、さて、どのくらいでできるだろうか?」と考えてみたりしていないだろうか?いや、きっと考えているはずなんだよ。
「その作業」を、何十時間もやり続けなければならない、と思って手を出す人はまずいない。反対に、数分で終わるだろと高をくくっているということもない。
とすれば、とっても大雑把に「その作業」は、「何十時間から数分の間において、事は片付く」と考えているはず。
たとえば、『目の前に大きな(直径30㎝、長さ2mほどの)木材があって、これを一人で半分に切らなければならない』という仕事が与えられたとしよう。あなたなら何分で切れるだろうか?10分?30分?1時間?まぁ24時間かかるという人は多分いないだろうしそんな無謀な課題も出てこないだろう。普通の木材であっても、このサイズを1分で切れるという超人もそうはいないだろう。なので「1分以上、24時間以内」を大雑把な目安とする。多分実際は「十数分から数十分程度」と見積もっているんじゃないかな。
で、いよいよ作業に取り掛かる。まず確保すべきは刃物。それ相応ののこぎりや斧が見つかればいいものの、そうした道具が集まらないとお手上げだ。なぜかって?たとえ刃物でカッターナイフが見つかったとしても、“それでは予定時間内には完了できない/目標に到達しない”と判断しているからじゃないだろうか?なので見つけた刃物の種類、道具の種類によって、ここで心の中の予測終了時間に、微妙に『修正』が入っているはずだ。
運良く手ごろな刃物/のこぎりが見つかったとしよう。それを手におもむろに切り始める。直径30㎝、慣れていないとはいえ30分、まぁ10分もあれば切れるはずだと、再度、心の中で確認する。
刃物を木材にあてがい、いざ切り始めてみる。と、その木は想像以上に固い/目の詰まった木の感触!“あ、これは手ごわい!”そう感じた瞬間に、ターゲットとする予想時間はぐっと伸びたものに再度『修正』されているはずだ。そこで少しでもその修正量を小さくせんがために、しっかりやらねば、頑張らないと切れないぞと心構えが変わったりする…。
結果、たとえば40分かかったとしよう。お疲れ様。
そして、その経験値が残る。「この程度のサイズのこの状態のこの種類の木を、この道具で、自分一人で切断するには、40分程度の時間がかかるのだ」と。
これだけの短い間でさえ、見積もりに細かな『修正』が入る。周りの状況が予想と違ったことを敏感に判断して、目標値を定め、その差分を小さく抑えようと力を発揮する。
上記のような木を切る仕事ではなく、普通の仕事、事務作業、デスクワーク、営業、販売、開発、研究等々、どのようなことにおいても、何か目標を定め、それに対して、仮にいつごろまでにどこまでできているかの見積もりを立て、その後遂行していくうちに徐々に環境が変わり、進捗度合いも変わるのを調整しながら、目標に近づいていく。仕事が一気に終わるような簡単なものではない場合、段取りを組んで、はじめのこの部分がいつごろ終わり、次の段階はいつごろが目途になりと、段階的目標を積んでステップ化しているはずだ。
ただそれが多くの場合、自分一人だけで完結する仕事ではなく、大きない仕事になればなるほど、他の人、他の部署と連携した形で進めて、はじめて仕事として成り立つことになる。
となると、各関係者が、各々見積もりをバカスカはずしてばかりもいられない。ある程度の精度を持って、見積もりが当たるようにしていかなければ、仕事が毎回頓挫することになる。
大きくとん挫しないためには、各々が万一を考えてマージンを取るんだけれど、これをするとプロジェクト全体に“霜降り”のように余剰時間が蔓延し、目標とする期日には完成できなくなる。だから精度を上げていく必要に迫られる。
木を切る際には、木材の直径や、木の質、木の種類、乾燥度合、刃物の種類、砥ぎ具合など、変数要因は容易に想像がつくほどで、さほど多くないだろう。けれど仕事の場合には、関わる人/会社、前提条件、資材調達等々、複数の要因が複数の人の場面で複雑に絡み合う。なので、いろんな仕事の見積もりをすべて記憶しておくわけにはいかないしできないだろう。
結局こういうことが背景にあって、会社単位では取引先ごとに、「あそこなら1週間でやってくれる」とか「こっちなら3日でやってくれる」という実績につながるんだろう。細かな要因を丸めて、会社というパッケージでリスクを内包してもらう。その会社の中では仕事の効率化というせめぎあいがおこっているんだろうけれど、そうして会社は強くなり、成長し、より良い仕事がより早くできるように、大きくなっていく。
だけどこれ、個人単位にも使えるんじゃないかなぁ。
こんな仕事なら自分なら「1週間」でできるとか、この程度なら俺は「1日」で仕上げるとか。最初はあてずっぽうかもしれないけれど、それを自分として『記録』しておくことが大切で。
1週間でできると思っていても、実質10日かかっても“最初”はしょうがない。それはいいんだ。しかし、二回目以降に同じような要望が来たら、「それ、9日でできると思います」と自信を持って請け負うことができるんじゃないのかなぁ?、いや、その9日という数字が出せることが大切で。(1日分短いのは、成長しているはずの自分が頑張る分 w)
こういうことは、自分事であったとしても、『記録』しておかないとおぼつかない。そして、記録できていること自身が、自分の成長につながってくる。
あぁ、昔はこんなことに3日もかかっていたのか、いまならこんな道具を使ってうまくできる方法を知ったから1日でできちゃうのに。
そういう、基本単位の“見積もりブロック”をいくつ持っているか、数多く持っていればいるほど、何度も磨かれた精度の高いブロックであればあるほど、仕事の精度は上がる。
そうして過去の自分を残していくことで、自分の成長の跡が見えてくる。足らないブロックも見えてくる子もあるだろう。
そして、記録は“自分ではない”他の誰かの成長にも役立ったりもする。
それは明日。