テクノロジーの責任

100年前の記録映像が見つかっただの、当時の写真が見つかったということが、ひとつの番組になったり、Webに掲載されたりすることがある。そうして見ることができる当時の映像は、景色はもちろんの事、当時の空気感などを含めた雰囲気を伝えることに貢献しているのは言うまでもない。そこに写っている人や建物が、自分には全くゆかりがない人がほとんどであるにもかかわらず、人々はその当時の写真や映像を、貴重な記録として眺め、満足をする。

とするならば、もしもそこに現れる映像や音が、自分に関係があったり、ゆかりのある地であれば、なおさら愛着がわくというもの。そしてここ50年ほどの間、写真や録音、ビデオ録画機器が急速に社会に普及し、それぞれの人々が残した記録は膨大な量になっている。すでに、わざわざ「カメラ」を持たなくとも、ほとんどの人はケータイに付随するカメラを使いこなし、さまざまな記録を切り取っている日常。

 

 

その一方で、技術の進化も尋常ではないスピードで進んできた。これは裏を返せば、つい数年前の技術がすぐに陳腐化してしまうということでもある。

写真、それも昔の銀塩写真なら、フィルムに焼き付けたものを印画紙に印刷することにより、みんなで眺めてみることができた。記録した物を再生する装置は「目」だけでよかった。だから100年前の記録を今でもすぐに見ることができる。

エジソンがロウ管に音声を記録して以後、音を記録するという素晴らしい偉業は達成されたものの、それは再生する装置を通して音を再現させる必要があった。なので蓄音機やレコードプレーヤーなしには音は聞けない。CDプレーヤーがなければ、CDは、ただの板に過ぎない。すでにCDが発明されて30年近く経つだろうか。未だにCDは発売され、CDプレーヤーは作られ続けているけれど。これがいつかなくなってしまうと、市場に出回っているCDは、ただの銀の円盤になりさがる。「再生装置」があってこその記録媒体だ。

 

こうして消えていきつつある装置は他にもたくさんある。1960年代の8ミリフィルムなどというのは、すでに50代以上でないと通じないかもしれない。

わかりやすいところでいえば、ビデオのベータマックス。かつてソニー陣営が推していた家庭用ビデオデッキの方式だけれど、今やそれが再生できるデッキはこの世に何台存在するだろう?まだ家庭用ビデオカメラ普及の前であったこともあり、個人で撮影したコンテンツは少ないかもしれないが。

個人で撮影したコンテンツとなると、VHS-Cや、1980年代後半の8㎜ビデオなどだろう。けれどどちらも、いまや再生装置を探すのに、かなり苦労するのではないだろうか?いまから約25年ほど前でしかない。

音においても、DATという優れた方式の録音機材があった。エヴァンゲリオンのシンジ君が持っていた機器だと言えば、今の人にもわかるだろうか?でもこれもDATの録音機や再生機がすたれた現在、録音されたテープは家にたくさんあっても、それらを再生する装置がなければ、記録が記録としての意味を成しえない。

MDもそうだろう。一時期は音楽を持ち歩く手段として一世を風靡したはずのMDも、あっという間にiPod陣営にかっさらわれて、すでにメディア再生環境を探すことに、かなり苦労する事態となっている。

 

すべて新しい技術に駆逐されていくのか?というと、そうとも限らない。コンパクトカセットテープ、いわゆる初代のWalkmanで利用されていたカセットデッキは、少ないながらもまだ細々と生き残っていたりする。風前のともしび状態ではあるけれど、ずっと引き続き再生環境を担保されている。

レコードもそうだ。一時、レコード針の生産がストップした時代もあり、すべてがCDによって塗り替えられてしまうと思われたけれど、細々とではあるけれど、再生装置が作られ、今でもレコードを聴くことができる。

 

 

そうした新しいメディア、記録装置を作ってきたメーカーは、文化を担う社会的責務として、過去の記録を紐解かせる責任の一端を担っていかなければならないのではないだろうか?商売が駄目になりましたから、売り上げが上がりませんから…と、古い技術をポイッと捨てさり、新しい機器、利幅の取れるモノだけを売るのが、企業の役目ではないだろうに。たとえ時間がたとうとも、細々とではあろうとも、私たちのことを考え続けてくれていることが分かれば、私たちの方もそれなりにその企業に協力する。「利益が出なくなりました、さようなら」、という企業と、「細々と支えていますがかなりやばいです。一緒に支えてもらえませんか」という企業と、どちらに協力したいと思うだろう?

昔を懐かしむCMや、過去を大切にする印象を与えるイメージづくりに力を入れるより、本当に市井に埋もれている記録/記憶をもう一度よみがえらせる、人々の前に再現させることに力を尽くしてもいいんじゃないだろうか?

震災で失われそうになったアルバムが再生されたことで、どれだけの人たちが救われたか、思い出の価値の大きさがどれだけ大きなものだったか、人々はもとより、企業はもっと感じるべきではないだろうか?

 

精緻な映像や、3D画像を再生させる装置もいいけれど、昔の思い出を、きちんと安価によみがえらせるサルベージ事業があれば、それこそが文化的価値担保に一役買っていることにはならないだろうか?そしてそんな企業こそ、応援したくならないだろうか?庶民の文化とは、こういうところにあるんじゃないんだろうか?