言葉を形にする

僕らの思考の核となっているのは言語。日本語でも英語でも、ドイツ語フランス語、どこの国の言葉でも構わない。形がある、手で触れる「本」「犬」「りんご」といった言葉もあれば、「怒り」「うれしさ」「落胆」といった気持を表す言葉をはじめとして、手で触れることができないような、概念、動作、雰囲気といったことさえも、言葉で表現できる。明確な定義のないような「ざわざわ」とか「キリキリ」といった言葉まで用意されていたりする。

 

頭の中には映像が浮かんでいるのに、モノの名前が出てこなかったり、顔が浮かんでいるのに人の名前が出てこないことはよくある事。それはモノという存在が先にあるのであって、それに対してあと付けで名前がついているからだ。形があってそれに名前がついている。存在しているからこそ、それを呼び分けるために名前を付けている。

 

 

僕らが日々つくらなければならないものは、そこに今ないものだ。それを、今までにあった似たようなものを組み合わせることで形作る。それがモノであったり、サービスであったり。今までにない新しいサービス…などと言いながら、それは実は分野の違う別の何かで適応されているものがそこになされているだけに過ぎないものも少なくない。

 

全く今までにない新しいモノは、かなり少ない。形や色が変わったり、大きさや速さ、重さが変わることで印象が変わる。でもそうしてそれまでなかった何かを作る。そしてそれを作り出すためには、多くの場合、自分一人では作れない。誰かの助けを借りて、多くの設備を借りてそれを作り、誰かに届ける。

そのためには、他人にいまから自分がやりたい事を伝えなければならない。何をしたいか伝わらなければやってもらえない。

そのために、僕らは言葉を使う。相手を動かすために、相手に動いてもらうために、相手の意思通り動くために、言葉を使う。そしてその行動により、相手の頭の中にあるモノを、誰かの手を借りて形にする。

 

こんな面倒なことを経てアイデアは形になる。イメージが形になる。

言葉を形にする。なんて大変な作業。