負けたを負けたと認めないから

「残念、負けちゃったね。でもよく頑張った。よくやったよ。いい試合してた。」

 

こんな言い方で、子供たちの試合を励ます親はたくさんいる。勝ち抜き戦なら、基本、負けないところは1つしかいない。それ以外はすべて、必ず負ける。

子供たちを励ますことにおいて、それまでの努力、そこまでの苦労をねぎらう言葉をかけるのは教育的にきちんと意味がある。そして彼らの人生は、「その戦い」ですべてが決まるわけではないし、それ以外のフィールドにおいて勝てればいい。

 

 

ところが、いつまでもそうし続けるというのも、それはそれで弊害でもある。いやよくやったよ、次頑張ろうね…。ねぎらいの言葉も大切だけれど、それをもってして、現実をキチン受け止めない、ちゃんと負けたとわからない、ちゃんと一度落ち込まない。負けは負け、でもそれを認めない。であるがゆえに、だから“きちんと”立ち直れない。いまのままでもいいかもしれないと思いがちになったりする。

だから立ち直る必要などないと勘違いしたりする。

 

負けたけどよかった…はないのだ。

良い負け方だった…もないもない。

負けは負け。弱さを実感しよう。駄目だったんだよ、それは。

 

負けたからどうするのか?

惜しい…が負けた。だったら次は惜しくないようにするのか、別の手で行くのか?

 

きちんと負けたと認めないから、そのままでいいのかぁと考える、手を抜きがちになってしまう。今の努力の延長戦でいいのだと、同じ過ちを繰り返すことにもなる。

もちろん、今の努力の延長線で行ける!というのもひとつの作戦だ。それは、今回惜しかったし、確かに負けた、でも佐八時待ってきているというのを実感しているからこそ取る“戦略”の一つであり、のんべんだらりとつづけているのとはわけが違う。

 

 

 

だけどいいじゃない、つぎで、次頑張ろう。

いいじゃないか、今度勝てば。

でも、努力しなければ、いつまでも負け続けるのさ。

ずっと負け続けることはできるよね。簡単だ。

でもずっと勝ち続けるのって、大変だ。

一度落ちたっていいじゃないか。

ダメだと認めて何かを変えないと、いつになっても勝てない。

そして勝ったとしても、いつまでも勝ち続けることはできない。