椅子取りゲームの視点から

僕らは小さいころから競わされている。ゆとり教育だなんだと言われている部分も確かにあるけれど、早く計算できた方がいいですよ、早く理解できた方がいいですよ、より難しいことが分かった方がいいですよ、こうして理解するのが早いですよと言われてきた。

それはどうしてか?他人より早くわかることで、よりよい「席」が手に入るから。人より難しいことが分かることで、他の人にはわからない「席」の存在を知ることができるから。

 

いろんな意見はあるだろうけれど、少々乱暴だということも分かりつつ言うとするなら、僕らはいかに椅子取りゲームの椅子をゲットするか?という方法を植え付けられてきたところがある。

 

義務教育のレベルくらいならまだいい。そこを通り過ぎると、世間には潤沢に「椅子」が用意されていないということもわかってくる。椅子をいかに早く見つけるか、いかに早くそれを手にするか。

 

しかし、世間的にはそうした椅子は多くない。昔なら、ちょっと努力すれば椅子はそこそこ用意されていた。豪華な両肘掛付の皮張りの椅子。しかしそれも数は多くない。となると、少しグレードを下げて、布張りの肘なしの椅子でもいい。しかしそれすら数が減ってきている。でも座りたい。となれば木で作っただけの椅子、いや、パイプ椅子でもいい。座りたい!そして必死でパイプ椅子に飛びつく。

 

でも本当に座りたいなら、“自分で椅子を作っちゃえ”ばいいじゃないか。でも少なくとも私が受けた教育の中ではあまり多くそれは語られてこなかった。「椅子を作ろう」ということを目標に掲げることはあまりなかった。でも作ってもいいんだよ。今は世の中にない椅子を。時にはそれに座りたい人もいる。

 

人が座りたい椅子を作ること。これは素晴らしい事だ。そしてその椅子を作ることこそが求められている本当の事。皆が椅子を作ることができれば世界は変わる。安い椅子を作る事じゃない。みんなが座りたい良い椅子。

目標は「椅子に座る事」じゃない「座りたい椅子を作り出す事」なんだよね。

 

…とすると、椅子の作り方というニーズも出てくるはずなんだけど。