他人から見た自分の価値

ある方からこんな言葉をいただいた。

あぁ、それはあなたにとってもあっているお仕事に思える、と。

何かこそばゆいものを感じながらも、大変ありがたい言葉。丁寧にお礼の言葉を述べた。と同時に、そういえば誰かのブログにも似たようなことが書かれていたのを思い出した。


“あなたの価値”は、「あなたがあなた自身を見たことによる価値」ではなく、「あなたが他人からどう思われているかという価値」である、ということ。自分の価値を自分で判断しようと思うと、それこそ自分を「客観的に」判断しなくてはならなくなる。社会的価値、会社的価値、仕事における価値はなにがあるのか。
当人は、何気なく普通に行っていることが、実は周りから見るととんでもなく難しい場合もある。そしてその逆もある。当人が一生懸命頑張って行っていると、自分自身が認識している事であったとしても、周りから見れば平均以下で、それはあえて価値としてカウントするまでもない場合も少なくない。

だからこそ、自分の仕事ぶりは自分で判断してはならないのだろう。自分でいくら頑張っていたとしても、世間様からみれば、「それはあたりまえ」というレベル程度であるなら、頑張り続けることはいいものの、そこは実質的に対外的価値を生んでいないのだ。
しかしむしろそうではなく、自分では普通に行っている、自分では当たり前にこなしていることにこそ、実は対外的価値を生み出す源泉があったりする。そしてそれは、なかなか自分では価値として認めることが難しい事。

そういうことを、忌憚なく聞かせてくれる友人や知人、周りの人たちが時に助言してくれるという環境を作れていると言う事こそが、その人の価値であり、その人が対外的に大きなことを成し遂げるトリガーとなりえる。

いくら自分で価値を持っていると思っていても、それは普通発動しないし、発動するほどのものではないのだ。
非凡は、当人にとっての非凡ではなく、周りにとっての非凡であることに意味がある。