程よい大きさ

メディアには程よい大きさがある。

メモ用紙として、ある大きさ、ある情報量を書き込めるためのスペースを持ち、さらに、逆に大きすぎないというのが可搬性に富んでいるメリットがあったりする。
であるがゆえに、いわゆる紙のノート呼ばれるもののたいていのサイズが、A4やB5サイズになっているのは、不思議でもなんでもない。

それより小さいものは、いわゆるノートではなくメモ程度の一時しのぎの媒体でもあるし、大きな模造紙サイズを日々持ち歩いて書くといのは常識からははずれているだろう。


私が以前いた会社で、私の隣の部署で、とても小さな記録デバイスを扱っていた。DATと同じか、それ以上の音質データを、親指の爪ほどのサイズのメディアに録音できる技術が開発されていた。
商品化もされたが、結局鳴かず飛ばず。技術もすたれたし、エンジニアも雲散霧消した。

今でこそ、爪の先ほどの大きさに○ギガバイトのデータを格納できるようになっているけれど、それだからといって、手にできるデバイスが無限に小さくはなっていない。指先で扱う事を考えると、小さすぎる事は危険であり、扱いにくいことにもなる。だからこそ「物理的サイズ」は、小ささとしての限界があり、その大きさで「容量が増大すること」による付加価値をうまく訴求できることこそが、そのものの価値につながる。

と考えるならば、ユーザーインターフェイスとか操作性は、当然ながら「人間」のサイズによって規定されている。身体の大きさ、手の長さ、足の長さ、手のひらの大きさ、指の長さ、太さがあった上での操作する機器が存在する。
そこに、より細かい操作性を求めたりする場合には、より細かい操作が「できる」道具「しやすい」仕組みがあってこその操作性になる。

当然、程よい大きさというのは、デバイスに限らず、食事の量や食器の大きさもおんなじで。手で持てないような茶碗やコップが存在し得ない事の「当たり前さ」をどれだけ意識できるかってことが、考えを深めるポイントですかね。