プロの意識

相手がプロであればあるほど、プロとしての行動が意識される。プロならばこうするだろう、プロならばこういう想定で動くだろうことが想像される。そして、それに見合う形での成果を出してくるからこそプロであり、もしくはそれを超えたさらなる想定を判断した上での成果を見せてくれるからこそのプロだったりする。

であるがゆえに、たとえ自分の敵であろうとそれがプロであるならば、それなりの成果が想定されるし、そこそこに予想がたてられるものでもある。

逆の見方をすれば、それでいいの?という成果しか出ていない“プロ”の成果が出てきたとしたら、それはその市場が未熟なのかもしれないし、馴れ合いのマーケットになっているのかもしれない。ひとたび本物のプロがそこに現れた瞬間に、それまでの“プロ”が、ガラガラと音を立てて崩れていく。

プロの市場において、プロが崩されることがあるのは、それは世間の興味がその成果に興味がなくなったり、そもそも代替手法が生み出されることでプロの価値が必要なくなることであることが多い。

真のプロならば、それはたいていどこに出向いたとしても、そこそこの価値基準が適応される。たまたまその場所に「席」がない時には価値がないように見えることもあるけれど、他に行けば価値は担保されている。
反対に、似非“プロ”である場合、それは他に行くと価値がガタ落ちする、もしくは全く認められない場合もあり得る。

雇用が流動化するというのは、そういう意味でのプロ化が進むことなんじゃないかなと思っている。