言い切らない時代

「…かも」「…だとか」「…だそうです」などなど、最近世間では、言い切らない表現が多用されているように思う。

これだけに限らない、丁寧語の誤用のように言われている
「…でよろしかったでしょうか?」
などというレストランや居酒屋での物言い。丁寧語の使い方が間違っているという理解が多いのだけれど、もしかしてこれ、配慮していると言うよりも、責任を回避していないだろうか?

 

昔の日本は…(なんていうと、とっても年取った気分で、それはそれで嫌なのだが)、持って回った言い回しはほとんど聞いたことがなかった。であるがゆえに、そこには発言に責任を問われる可能性も含んでいた。万が一それで問題が起きたとしても、常識の範囲内で、当然負うべき者が、負うべき責任を負うという、ある意味で当たり前の認識事項。

しかし、どこからかその常識、コモンセンスが通じなくなった。というか、上記のような暗黙の常識で対応していたことを逆手に取り、「そんなことはどこにも明記されていないだろ!」「それは聞いていない!」なんていうやり取りが増えたのではないだろうか?
そうなると、責任を負わされる方はたまったものではない。いくら当たり前であっても、(ある意味の)契約事項として明示されていないことは、責務を負わされる可能性がある。とすると当然、そこは防衛のための施策が必要になる。

 

「…でよろしかったでしょうか?」
それは、“私が決めたんじゃないですよ。あなたがそうおっしゃったんですからね。決めたのはあなた、責務もあなたにありますよ”という丁寧すぎる確認ではないだろうか?

そう考えはじめると、要するに契約事項で明示されていないことは、コモンセンスが通用しなくなりつつある、防衛する必要があるという、ある意味での契約社会、そして結構簡単に訴えたり、訴訟に持ち込む可能性が増えつつある社会に近づいているのではないか?という気がしている。

コモンセンスでは成り立たない。黙っていればわかるという時代ではなくなりつつある社会。それはそれで、狡猾な者が利を得る。考えをめぐらせ、戦略を打ち、書面に明るい方が得をする社会。

良い面は確かにあるだろう。でも、日本の良さはそこではなかった気がするんですけど。

取り越し苦労ですかね?