常識の範囲

○○ランチ、限定10名様

どこどこ産フルーツ限定スイーツ、5つ限り
お試し価格、限定30名まで

などなど、お試しと名がついたり、限定されたサービスや価格には目がないと言う人もいるかもしれない。そもそも「いつものあれが欲しい!」とそこに立ち寄ったというのなら別だけれど、たまたまそこに居合わせて、「限定…」と書かれていると、ならちょっとそいつで…というきっかけ程度にはなるだろう。

 

ところで、限定がつかない商品はあるだろうかと考えてみる。
たぶん…ない。
そのお店で無限にやり続けられるかというと、そもそも今日1日で捌ける顧客数が有限だ。となると、必然的にそこに上限がある。ほら、もう限りがあるじゃないか。
限定されると言う事で、何か自分が特別なはからいを受けられるように感じている人もいるかもしれないけれど、そもそも限りがないほうがおかしいのだ。
いつもは普通に入れるお店が、テレビで紹介されてしまったがために、長い行列ができてしまい、事実上いつものお客が入れなくなってしまうというのは良く聞く話。まさに限りがある。

 

それを限りがないと思い込んでいるのは、「普通、1日に○名くらいしかこない」とか「常識的にはこれくらいしかない」と、思い込んでいる前提と照らし合わせているからこそ。そもそもその部分が覆されてしまうことがあると、もうそもそもの意味から変わってきてしまうはずなのに、その意識が変えられない。

それによって苦しんでいる人は結構いる。しわ寄せを受けている人はかなりたくさんいる。昨今の仕事の効率化、仕事の負荷上昇なんてのはその一つなんじゃないだろうか。ジワリジワリとあげられて、そもそもの常識の範囲を超える。が、その意識なくそれらを増加させることでなんとか右方上がりを維持しようとする経済、会社、上司…

 

型にはまることで楽ではあるけれど、型の限界が近付いている事に気づけなければ、そもそもの内圧はたかまり、プレッシャーとなって襲い掛かる。
その範囲はどこにあるのか、そもそも論はどこか、常識としてとらえている範囲がそもそも逸脱しつつある状況ではないのかと考えてみることもまた一考。