劣化しないということ
私の子供のころの写真は、当然ながら色あせていく。当時は当時で、いろいろと施策を施した写真なのだろうけれど、明らかに色あせる。
でもそれが悪いことだけだとは思わない。当時の雰囲気を残しつつ、しかし年老いていく写真。
皮製品で、エイジングなどと言って、購入当初は薄めの茶色のカバンや財布が、使い込むうちに赤茶けたりしていく。それもそれで一つの楽しみ。年月がたったという思いと時間を共にする。
時にラジオ局やテレビ局のプロデューサーぐらいになる年代層が、自分の青春時代、思い出深い曲を、番組で使うことで、プロデューサーと同世代の層が「あぁ懐かしい」となるのに加えて、それまで聞いたことがなかった若年層が、新鮮に感じるということでリバイバルになったりすることがある。
場合によっては、リアレンジされ、今の歌手が歌うことで、流行ったりもする。
昔は、そんな古い音楽に触れる機会はほとんどなかった。自分でレコードを探しに行く、CDを漁ると言う事をしない限り、そういうものに触れる機会がなかった。それが歴史であり、それが時代性を生んでいた。
ところが、デジタル時代に入ってからこっち、データは色あせない。データの音も劣化しない。いつでも昔聞いたと全く同じ音で、色で、再現される。それにより本当に時代を感じさせるもの以外は、単に新しい物、新鮮な物として扱われる。自分が知らなかっただけで、時代性はあまり意味がない。
劣化しないことで、そこに介在していた時間は、そのモノからは醸し出されない。劣化しない情報と、劣化するというモノとして特性が切り離される。
これにより何が生まれるんだろう?
たぶん、ミックスされる組み合わせが時代とともに増大し、エントロピーとして増大する。でも、その過程で、今までは似たようなパターンしか生まれなかったところに、今までにない組み合わせの何かが生まれるのかな。