みんな、たくさん

子供のころ、欲しいモノがあると親におねだりする。

「これ欲しい。これ買ってぇ」

「だめ、必要ないでしょ」

「だってみんな持ってるんだもん…」

 

「みんな」って誰なのか?尋ねられても答えられない。誰ちゃんと、誰君と、誰さんと…、他には?と尋ねられたところで、そもそもデータすらない。自分の周り数人を分母にして判断しているに過ぎない。

 

子供ならこれでも済むかもしれないが、大人ならそうはいかない。

「この企画やりましょう!皆さんやりたがってます!」

 

「皆さん」とは誰と誰なのか?それは部内のどのくらいの勢力になっているのか?数字で示さない限り、普通は動かない。一部の声だけで代表させて、なんてのに引っかかる上司は、よほどのぼんくらか、よほどマーケティングの直感が優れているかのどちらかではないか?

 

言うまでもなく、意見の上での賛同者を味方につけて、自分の論を通そうとする場合には注意が必要だ。理系の論文などでは全く歯が立たないのは当然だろう。ましてやその意見で人を動かそうと思うなら、誰が見ても納得できる形でそれを示せてこそ。そうした言葉を操る人、言葉を生業にする人は、当然ながら、示す数字の論拠をきちんと示す必要がある。

が、日本の政治において、さて、どのくらい信じられる数字が示されてきただろう。それはそれで、統計のウソに翻弄されていたりもする。それを暴くジャーナリズムすら腰砕けに近いとするなら、一人一人の判断力にゆだねられているという、危うい状況。

 

みんな、たくさん。ほかにもその手の単語はいろいろあるはずだ。

疑わなければいけない世界ほど、高コストな世の中はないはずなのに。