評価されているのは

それは大抵過去の事。

「今」が評価されることもないとは言わないのだけれど、ほとんどの事象において「過去」が評価される。

スポーツにおいて、今勝った事が評価されるように見えても、いやいや、それはここに来るまでの鍛錬、努力、練習が実ったと言う事であり、見かけ上の今の成果が評価されているように見えて、地道なこれまでが評価されていると言う事。


有名なピカソの逸話などというのを思い出す方もいるかもしれない。

たまたまレストランでピカソに出会った一般人が、そのレストランのナプキンに、何か書いてもらおうとお願いしたところ、サラサラッと線画を。おぉありがとうございますと言ったところで「これはうん百万だよ」と。びっくりした顔をしたその人に対してピカソは、「この絵に至るまでの今までがあったからこそ、のこの絵」だと。

 

だから、評価されるためには、その評価に至る今まで、そこまでがなきゃいけない。というか、必ずあるはずだ。成果主義なんてのも、たまたま偶然にいいものが作れる稀有な人もいるかもしれないが、それが当人にとって努力なのか楽しみだったのかが違うこと。まずほとんどが「そこに至るまでの経緯があった上」での「今の成果」。

 

だからこそ心配する。

「今」評価されていることで、「今の自分たちの実力」だと見誤ってしまうと、それこそ大きな誤解、痛手だと。

 

10年後、20年後にも、この国はノーベル賞受賞者を輩出できる民度の高い国でい続けられるのだろうか?