ヤマアラシのジレンマ

エヴァンゲリオンが大流行したことで、結構ご存知の方が増えた「ヤマアラシのジレンマ」。いろんな説明はあるけれど、「寒い冬で、互いに近づいて温まろう…と思ったヤマアラシ2匹。だが近づくと自分の針で相手を傷つけるので、ちょうどよい距離感で悩む」という状況。

 

昨今のセクハラ騒動。一言の下に決断が出るとは全く思っていないけれど、とはいえそこには、このヤマアラシのジレンマの状態があるのではないだろうか?

 

女性だって同じように働く。女性機会均等法が施行されて以来、すでに30年近くになると思うけれど、そんな中で互いに平等な働く環境等が整備されてきた。

ただ、(誤解を恐れずに言うと)結局のところいつになったとしても「平等」にはならない。そもそも体の構造の違いからして「同じ」ではない人々、体の周期として違う構造を持つ人々において、まったく同じ状況を提供するなどというのは無理だ。
…と断ずると、「という事をもって等しくすることを求める事じゃないですか!!!」と揶揄される方もいる。それ、「平等?」なんですかね。いや、平等という言葉の定義なのかもしれないけれど、私のイメージとしては、「違うことを認めて、互いに働きやすい環境を提供すること」なのではないだろうか?と考えている。

 

平等とは、平らかに等しいということであり、だからこそなんでも「同じ」という事になる。が、そもそも上記の繰り返しになるが形が違うのだから、「それぞれに、同じようにふるまえる事、互いにやりやすくなる事」を求める必要が。
とまぁこう考えると「何を平等にするのか?」という「何を?」が、単に「平等」という言葉をハンドルするだけでは明らかにぼやけている。あえてそこを語っていないこと自体が、議論をかみ合わせない、かみ合わない原因ではないだろうか?勘繰っていえば、その「何を」を決めようとした瞬間に、それすらバトルに陥ることがあるからこそ、そこを明確にしない、ということさえ透けていたりしないだろうか?これ、実は日本における、良いところでもあるのだろうけれど、昨今はそうしたスコープがぼけること自体が、物事の決着をつけられず、グダグダする原因になっているような気がするのだが。

だからこそ、小さくでも「前進」して行くために、決めて、出来るようにしていかなきゃならないんだよねと思うんですけどね。