完全な平等の下で
平等、皆同じ、あこがれる言葉ではある。生まれも、育ちも、それぞれに必ず違う。この時代に生まれてきたから得をした、損をした。この国に生まれてきたから、得をした、損をした…いろいろあるだろう。
だがただ一つ、実質的に完全に平等なものがある。それが「時間」だ。
生まれてから死ぬまでの時間の大小はあれど、あの人の1時間は長く、私の1時間は短い…ということはない。と考えると、この誰しも等しく与えられている「時間」から、いかに有益なことを引き出せるか?自分にとって意義ある1時間にできたか、が勝負となるのは言うまでもないこと。
もちろん、そうは言っても、すでに「お金持ちが使える時間」と「貧乏人が使える時間」にはもう違いが生まれ始めている。それは、金持ちは「金」で「時間」を買うことができるという手段を持っているからだ。だがそんなことを嘆いてみても仕方がないこと。ある意味「個々に与えられた手段による、時間の使い方」で勝負が決まると覚悟せざるを得ない状況。やはり「時間のみ」が等しいに過ぎないということ。
そう、だから「ここに与えられた手段」で勝負して行く。これはわかりやすく言い換えれば、いかに時間を効率よく使えるか?効率で勝負ということに他ならない。
学生のうちは(誤解を恐れずに言えば)、その3年間で覚えた単語数で英語の能力が決まり、その3年間で覚えた公式の理解で数学の能力が決まり、そうした積み重ねによって大学が決まる、という感じで(もちろん、それ以外もあるし、グッと端折ってますよ)。
さらに、さすがに昨今は「大学」によって人生が決まるほどの時代ではないけれど、その後の人生、会社や組織に属したところにおいて、仕事の進め方における時間の使い方でアウトプットの質が変わり、量が変わる。
そのためにはバカバカしい事にうつつを抜かしている時間はあまりないかもしれない。いや、遊ぶな、というつもりはない。遊びの中においても学ぶべき事象は数多くあるし、そう考えている認識している人々にとっては、遊んで楽しい時間を過ごしている中からでも、有益な何かを学んでいる人々が少なくない。
となれば、そういう意識を持てるかどうか、常にそうした効果のある時間を過ごせているか?なんとなれば、楽しい中からでも学べるマインドになっているのか?だから、全てが仕事であり、逆に全ては遊びでもある。
生徒や学生の時代は、「学びなさい」と言われて嫌々学んでいた人も多いだろう。だが、すでにその時点から、「あぁ、ここにも学べることがある、こんなことからも学べる」と楽しんで学んでいる人がいるのだ。
だから学びはどこにでもある。それで学ぶ、そこで学ぶ。学べるものがあると言うことに気づくという事。
与えられた時間の中で、事象の中で、いかに学ぶか?別に苦しいものばかりではなく、その意味を考えること、その意義を考えること、それこそが学ぶことではないだろうか?もちろん、そうして考えたことですべてが「理解できる」とは限らない。…がスタートでしょ?そう、そうしてわからないことを学ぶ、考える。それが学びのスタート。何も暗記するだけじゃない。記憶するだけじゃない。
まずは気づくことから、考えることから。多分ソコからでも、学べるんだよ。