誰を救えるのか

最近、会社の同僚から言われた一言。

「いやぁ、便利な世界ですよね。わからない事でもちょっと調べると何かしら情報が出てくる。ネットがない時代は想像できないなぁ。」

 

おっしゃる通り、1995年ごろに本格的にはじまったインターネットの爆発的な普及。そしてそれに沿った形での、検索サイトの性能向上などで、今や、わからないことがあったらまずは「検索」してみるところから始まる人も多いだろう。

 

その流れと同調する形で、「会社でPCを使えるように」とキーボードのタッチタイプ技能を習得するのも一時期はやった。が、今はむしろそのスキルの展開自体は停滞しているらしい。なぜか?それは「スマホ」が普及したことが影響しているらしい。大学生の中でもごく一部だとは思うのだけれど、スマホで論文を書く者もいるとか。なので「就職」したあとで、キーボードでのタッチタイプができない学生が、以前にもまして増えているのだとか。

 

さらにさらに、それほどネット環境が身近に広がることにより、「自分では調べない」ものぐさ者も出てくる。誰か代わりに調べてくれる人がいる。誰かに聞けば自分でやるより確実で早い。俺よりスキルがあるやつに聞いたほうが、早いし確実。もちろんその瞬間はそうだろう。だがこれが命取りに。その後の大きな格差に広がる可能性がある。

 

昨今のある意味大きな格差は、ネットを「使える」者と「使えない」者という格差。単に検索ができるというだけではなく、その中の情報を取捨選択できる、真偽を判断できる力を持っているという格差。これらを一言でいうと「ネットリテラシー」などという場合もあるだろう。

こうした力を持っているものは、ますます最新の情報を通じて、自分の実力をアップデートし続けていく。だが他方、持っていない者はどんどんと水をあけられることに。結果的にその最初の力の差が情報格差につながり、ドンドンと水をあけられることとなり、場合によっては就職や仕事、給与格差にもつながりかねない。

 

当初は、ネットが皆に開放され、全員が等しく情報にアクセスできる環境が整うことで、ある意味理想の平等社会の一端が垣間見えた気がしたのだけれど、その使い方、使える実力によって、格差が生み出され始めている社会。いや、ある意味、機会の平等の正しい結果かもしれないのだが。

 

「でも平等に」という声もなくはない。じゃあ「どのような前提の下で」平等であるべきか?努力するものとしない者との間でも結果平等を求めるのか、実力があるものと無いものの間でも平等なのか?結果の平等と、機会の平等と。とはいえ運だって大きく左右するがそれはどのように加味するのか?

何をもって、といった議論の前提の結果は出ていない。力の差によらず、完全結果平等は、極論的には社会主義的なものに近づくのでは?逆に完全なる機会平等は、極論的には資本主義的なものに近づくのでは?資本主義だけど、貧乏人も救いたい…は心情的には賛同するけれど、どれだけ救えるのか?でも、すでに社会格差的には結果は出ているのが今の社会なんじゃないかな。唯一絶対の解などないけれど。