潤滑油

時にこんな人に出会う事がある。お店であれ仕事であれ、自分自身に非がなければ、組織的に非があったとしても、絶対に謝らない、謝りの言葉を口にすると死ぬんじゃないか、誤ることで自分が負けたと思っている人がいる。

 

けっしてそのすべてが良い、というつもりはないけれど、自分に非がなくともとりあえず謝りの言葉を口にする、これ、日本の美徳の一部じゃなかったのだろうか?と思うのだ。美徳であり、日本の社会を回していた潤滑油。店先の第一線でお客様と接する場面で、事実上、お店の代表として接している「あなた」が、「申し訳ありません」と一言その言葉を使うだけで、今までならうまく回っていたところがあったはずなのに、現状そこでその一言がなく「できません」と、冷たく不可能を通告されてしまうという事。これでは摩擦係数を上げるだけでトラブルを生み出す一方ではないのか。

 

もしもそこで「あなた」が、「申し訳ありません」と口にしたところで、本当に「あなた自身が悪の原因だ」と思う人は、場合には寄るものの(←こいつが厄介なのだが)、まずいないだろう。誤りの言葉としてではなく、ねぎらいの言葉としての一言を期待していたのに、そこを冷たく事実だけを伝えるという形のみで対処してしまおうとすること。

 

いや、これはというと、万一そこで「ねぎらいの言葉」をかけることで、質の悪いお客からは「ほら、今誤ったじゃねーかよー…」と言質を取られかねない世の中が今増えつつある?という事。であるがため、こうしたお客の側の態度の悪さ、質の悪さが、結果的対処として店を防御的にふるまわせているという事にもなる。実質的にはお客の言動がこのような店の言動を引き出していたという事にも。

 

さらに言えば、そうして店の最前線で働いている店員にだって、「そこでわざわざ、ねぎらいの言葉をかけて丁寧に扱わねばならないほど、私は高級はいただいていない。安い時給で働いているんだ。それは高給取りがやってくれ」と思っている人もいないではないだろう。

 

要するに、対応するほうもされるほうも、様々な余裕がなくなっているであろうことで、ちょっとした「一言」を発する余裕がないばっかりに、殺伐とした雰囲気、空気を生み出している、結果、過ごしづらい環境が広がっているという事。

 

これでいつも思い出すのはこの言葉だ。「金持ち喧嘩せず」。社会全体が貧しくなっていっているのは間違いのない日本において、社会の雰囲気が悪くなるのは、あきらめるしかないんだろうか。たった「一言」だけのはずなのに。高価な対策すら必要ないはずなのに。