景気勃興期に生まれる既得権

景気が勃興していることで、少々のことを大目に見て、まぁいいか、とやり過ごしてしまう。まぁそんな固いこと言うなよ、俺たち満たされているじゃないか…。景気が良ければギスギスすることも少なく、皆にこやか。皆が一斉に経済的に成長する、そんな環境は良い循環、寛容な雰囲気を生む。

だが、景気は無限には上がり続けない。何処かのタイミングで景気が停滞したり、後退した際に、「以前はやってくれていたじゃないか!」という以前の慣習、既得権が、暴力となってあちこちで騒ぎを引き起こすことになる。お互いに苦しくなっているのだけれど、なんとか自分だけでも助かりたい。

 

これで苦しんでいるのが「日本の雇用」だろう。1950年代後半あたりから、高度経済成長へと向かい、日本は国全体が、国民全体の経済が勃興し始めた。それに支えられた「終身雇用」という勤め方も、それはそれで当時の理にかなっていた。その働き方に裏付けられた「いつかは一軒家」「夢のマイホーム」という生活スタイルも、それ自身が景気下支えの仕組みに取り込まれていった。

 

だが今は、失われた20年から30年になろうとしている。そう、もう失われた…じゃなく、「景気が盛り上がらない事」こそが「常」なのだ。だから1950年代、60年代、70年代のような仕組みの前提、そこで生まれたやり方、過ごし方、既得権はあきらめなければならなくなってきている。それのひとつが「終身雇用」だ。そしてそのあおりを受けたのが、徐々に正社員を雇わなくなった派遣社員の群れ。すでに労働の担い手の半分を超える人たちが、派遣社員であってもおかしくない職場がそこここに。

終身雇用など見る影もない。当然、そうして雇用が不安定だから、「夢のマイホーム」自体が夢であり、自分一人を支えることすら必死だから、結婚になどなかなか至れず、結婚したところで20世紀のような専業主婦世帯を前提とした生活、消費行動は、当然とれるわけではない。そう、それは「景気勃興期」の「ひと時の夢」であったに過ぎない。

 

だが人、個人は、30年ほどで世代を交代する程度で、より広いスパンではなかなか物事が理解できないのが通常。であるがゆえに、先代である、祖父母、父母の意見(それはたかだか30年から50年前の常識だった意見)に翻弄される。過去の成功パターンが、今の社会環境に通用する時代では無くなって久しい。

 

考えよう。過去のもうそれでは無理が来ている。我々の世代の我々の常識を作らなければ、時代に翻弄されるまま。唯一とは言わないが、考えることこそ大きな武器。

タマゴとニワトリ

どちらが先かは議論が分かれるけれど、20世紀末からこっち、ネットが発達し、コミュニケーションがより密に取りやすくなった時代以降において、個々人が物理的に顔を合わせてコミュニケーションをとる機会、取れる機会が減ってきている気がしている。

 

どこにいても仕事ができるから、と言うのはもちろん、いつでも仕事モードになれる。となると、仕事を手放す機会がなくなる。となれば、プライベートな時間がいつでも分断され、とりにくくなる。
逆に言えば、(仕事内容によるけれど)どこでもオフィスにできる環境が整いつつある、通信の高速化、デジタル化によって、仕事をする場所は限られなくなってきた。

 

ついでに言えば、日本においては、上記の環境が整い始めたにもかかわらず、「みんなで同じ場所に集まって仕事をしましょう」的イメージから脱却しきれていないという事が、(当然すべてではないけれど)仕事の効率化を妨げ、昨今の首都圏の異常なまでの通勤地獄、列車遅延に対する対策などの負の状況を作り上げる要因になっているのではないだろうか?

 

なら明日から、みなさん自宅で仕事をしていてもいいですよ…とできる仕事ばかりではないのも知っている。だからこそ、少しずつ、自宅での作業、自宅での仕事をできる環境づくり、仕組みづくり、制度作りに邁進すべきだと考える。ハード面は色々揃い出している。シェアオフィスも増えたし、駅には時間貸しのスペースもある。むしろこれについてこれていない、いや、そんなことすら考えていない人がネックだろう。

たぶんこうした考え方に一番弱い、というか懐疑的意見を言うであろう世代が、50代以上ではないだろうか。彼らはある意味リタイア世代。ネットに翻弄され、キーボードに虐げられてきたけれど、さらにその上の先輩方からの薫陶に酔いしれた世代…。ではあるけれど、ある意味時代はそこで激変した、それに追随できなかった世代。だから彼らの言うことを聞いてはいけない。彼らの保守的な意見に賛同すべきではない。(もちろん、積極的改革に邁進する人もいるよ。)

 

とは言え、じゃぁ全員、自宅から仕事をして、誰とも会わず、どこにもいかずに会社に貢献できるのか?というと、そうとも思わない。物事を極端から反対の極端に振ると問題が爆発することはよくある事。遷移期間、バランスが重要だ。やはり月に何度かは会社に行って、みんなと会う時間も必要なはずだ。そう、今、会社一辺倒、会社の中で過ごす時間が仕事時間…だった世界から、会社と自宅で仕事時間をシェアしましょうという、そこにバランスを見出す状況に変遷してきているはず。

そうできるから、そうする、でももちろんいい。でも、「そうすることを目指す」から、できるところからやっていく、でもいいんじゃないかな。

20年前の働き方と今では、まるで仕事内容が違うように、今から20年後はまた全く違った世界になっているはずだ。それを目指して、それを先取りして。だって、働き方を改革したいんでしょ?

 

テストが表しているもの

昨今の社会人、それもいわゆる一部上場企業などで働いていようかという方々の多くは、英語能力がある一定以上あって当たり前、の世界になりつつあるようで。

 

昔なら「英検2級」あたりが相場だったけれど、英検とっても話せない人が多かったからなのかどうかはわからないけれど…最近の多くはTOEICを指標としているところが少なくない。社内の昇格要件としての、TOEICが〇〇点以上、なんてのが相場として存在する。

 

これを目指して社員は英語に邁進する。TOEIC試験対策〇〇などなど、講座を受けたりスクールへ行ったり、最近っぽいところではアプリを投入したりなどなど、涙ぐましい努力。いや、努力をバカにしたいわけじゃない。皆さん頑張ってください。

 

ただ、本当に全員がTOEICを必要としているのだろうか?TOEICがコミュニケーションに重きを置いているテスト(命名からしてそうだが)なのはわかっているのだが、実はTOEICでほぼ最高得点を取っていても、話ができないような人はいくらもいる。そう、テストの「点数がいいだけ」の人がいるのだ。

 

ただ確かにこうした事実はある。英語でのコミュニケーション力が高い人は→往々にしてTOEICの点数が高い。これはたぶん事実だ。だがここでは「TOEICの点数」は必要条件であり、十分条件ではない。だから、「TOEICの点数が高いことで、英語でのコミュニケーション力は十分」とは言い切れない事実が存在する。これが上述したテストの点数がいいだけのメンバーの実態。

 

…だが、だからといってTOEICをやめてほかのテストを、指標を…というのも現実的ではない。もちろん、「必要十分条件」としての「〇〇テスト」があればそれに越したことはないのだが、どのテストでも同じだけれど、「それだけで」判断することは不可能に近い。…と考えれば、「TOEIC」を「昇格の必須条件」にすること自体が、ある意味ゆがみを助長することになるのではないか。人用要件の一つだが、その他の要件が上回れば、他の欠点をカバーして有り余ることがあるはず。最近、全ての項目の平均点が高く、かつ全体としての点数が高め、を求めるところをいくつも見るけれど。それ以外の、ある項目ずば抜けてます!それ以外はかなりグダグダですが orzをどこまで救済するのか。

 

とはいえ、じゃあとそこにあいまいな判断基準を混ぜ込めば、それこそが判断の混とんを生み出す要因となることも見えている。

やっぱり、人を見極めるって難しいな。でも、本当にいい人と出会うと、究極の化学反応だって起きるんだけど。

 

それも出会い

仕事柄、研修などとよく巡り合うのだけれど、自分もそうなのだが、受けたくて受けた研修と、上司が、会社が出ろと言っているので嫌々ながら出る研修とでは、なかなか身の入り方が変わってくる。

 

自分からお金を払ってでも…、という人にとっては、何が何でも払った価値分は取り返す勢いの人が大半だが、会社がわざわざ「行ってこい」と命令してきている人でありがちなのは、学びたい人だとは限らないという事。

 

確か海外における物事のたとえにこんなものがある。

「山羊を水飲み場にまで連れていくことはできても、飲むことまでは強制できない(そこは当人しだいだ)。」

「場」は提供できるし、そこへ引きずって連れていくことまではできる。だが、それを理解し、会得し、モノにするのは当人しだい。

となると、どのタイミングで連れていくか、どういう動機で連れていくかは大変重要で、興味があるとき、それをやりたいとき、それが必須になるとき…の少し前あたりに、そうした「場」を提供してやる事。

いや、昨今の考え方なら、「場を提供する」ではなく、「場」は常に提供されていて、自分のタイミングで、自分からそこに飛び込んでいく、くらいのやり方がいいのだろうか。たぶんこうしたやり方、ニーズを満足させるやり方が、キャリアステップアップに関する「カフェテリアプラン」であり、当人たちが自分の興味とタイミングを見て、自分でキャリアを形成していく。

確かにそれは理想的ではあるけれど、往々にしてそういうやり方をしていたとしても、本当に学んでほしい人、頑張ってほしい人であればあるほど、忙しすぎて、そんな研修には参加できる時間が取れなかったりする。逆に、勢い、研修漬けになるような人が出てきて、人材育成のゆがみが出たりする昨今。むつかしいよね。

 

なんだけれど、結局そうした研修もそうだし、自分が出合いたいような人物に自分から出向いていくのもそうだし、どちらも、自分から行っていかなければ、自分で行動に出なければ、なかなか満足できるものには出会えないだろう昨今。

そうした出会いをどう作りだしていくのか、別にお金をかけろというつもりはない。場を求めて、より良い世界を、より良い出会いを求めて。結局は自分が探している自分の片割れを探しに、「僕を探しに」ずっと旅しているんだろうな。

 

 

ネタ切れ感

私が以前勤めていた某会社。結構社会的には先進的なイメージがあるようで、それにふさわしく、会社の中の一部を工房化して、3Dプリンタをはじめ、レーザーカッター等々を使える仕組みを整え、社内ベンチャー的な動きをサポートしている。

要するに、自由な発想、今の事業とはつながらなくても、こんなことができるという事を試せる場を提供することによって、社内のアイデアを具現化し、次のビジネスの種を育てる活動をしている。

会社の上層部に向かって、こうやっていくとこんな事ができ、社会のこのようなニーズを掘り起こせる、満たすことができる、だからやらせてほしい!とプレゼンし、認められると、それが「仕事」として認められ、わずかながらも予算が付き、ビジネスとして回していける。それはそれはアグレッシブな活動だ。

 

言わずと知れた、Googleなどで行っている、与えられた仕事以外の何かをする事。事業とは違うけれど、机の下で面白い事を育てよという活動そのものだ。Googleはそれによて、Google Mapを作り、Google Earthを作り、スピンアウトしてイングレス、ポケモンGoにまでつながって来ている。うまく発展すれば、大きなビジネスへと広がる可能性ももちろんある。

 

…のだが、上記の会社において、その活動も、若干息切れしかかっているそうだ。要するに、誰もがそんなアイデア、それもビジネスにつながりそうな素晴らしいアイデアを持てているわけもなく、そうしたアグレッシブな、素晴らしいアイデアをお持ちの貴兄からの提案は、一巡してしまったようなのだ。

 

…と、こんな時にこそそのアイデアを求める先は、(もちろん、社内で絶えなければそれでかまわないのだが、もう枯れそうであるのならば)若者に求めるべし。そう、大学に求めるのは当然一つのやり方だろう。別に大学と言わず、昨今なら実力のある高専でもいいかもしれない。
彼らは、技術やアイデアはいろいろある。だが資金面で苦労していたり、商業化の術を持っていなかったりする。そここそ協力すべきところ、相互に補完できる部分のはず。アメリシリコンバレーなどにおいては、まさに、産学連携(というか、学校初のアイデアを事業化できやすい制度や風土)が渦巻いている、こうした流れを見過ごす手はない。

 

…というコメントを、某所、某大学の先生より賜った。

ガンガン作っていこうぜ。もちろん、成功しないもののほうが多いかもしれないけれど、その中で、100に一つの成功をあげ、それが爆発的な市場形成をすれば儲けもの。99の失敗を恐れてやらないよりも、1つの成功を探して100個トライすれば、その100倍以上のリターンを得られるチャンスがきっとやってくる。

限られたパイならばネタ切れもする、ならばネタの採取場を広げて、より新鮮なネタを探しに。