価値の土壌

理系、いわゆる工学を学んだ身からすると、新しい技術、新しいものを作ることを是として叩き込まれ、社会へと送り出される。工学の「工」は、人と物とをつなぐ新しい架け橋なのだ、などと教えるところもあるという。

 

そんな中、時代はモノから情報へと価値が移り始める。

モノが消えたわけではない。モノが複数必要ではなくなったわけだ。いや、複数欲しい人もいるのだろうけれど、一つで複数の機能を賄えることを希望する人が増えた、そういう操作に耐えうる社会に進化したともいえる。

 

どデカいメインフレームと呼ばれるコンピュータがワークステーションに置き換えられ、ワークステーションがパソコンに置き換えられ、デスクトップの大きなパソコンがノートパソコンに置き換えられ、それもタブレットとスマートホンに置き換えられつつある。ゆくゆくはそれがメガネ型になるかもしれない…といった未来も見えつつある。

 

この間に、テキストがデジタル化したところから始まり、音もデジタル化し、静止画も動画もデジタル化した。そしてそれ以外の情報である、たとえば位置情報、地図情報などとも親和性が高まり、常に“その場”での情報が取れる通信との融合に、大きな意味が出始める。

 

こうなると、デジタルであることを享受するためには、あちこちの端末で見るのではなく、どれかの端末/スクリーンに情報を集中させることこそ、利便性が上がることに。それが通信端末になるのは、ある種自然なことだろう。

 

それでもテレビはなくならないだろう。みんなで見るという形は、すくなくともまだ何年かは生き続けそうだ。

けれど、今までのような“価値”を保つのはもう無理だ。「視線」を占有する時間は、明らかに「大きなテレビ」よりも「いつでも見られるスマートホン」の方が長くならざるを得ない。となると、どちらによりお金を使うかは推して知るべし。それはある種、映画館とテレビの関係に似ているのかもしれない。そこへ行かないと見られないのでは意味がない。

 

土壌が肥沃(ユーザーが多い)なところでは、薄利多売が成り立つ。

ただし、肥沃であるがゆえに、競争相手も多い。

土壌が痩せた(ユーザーが少ない)ところでは、薄利では無理だ。

ただし、そうであるがゆえに、競争相手も少ない。

 

時代が要請する商品で、サービスで、企業は大きくなる。

だが、時代が通り過ぎることで、その規模は重荷になる。

この土壌を耕し続けるのか、より肥沃な土壌を探しに旅立つのか。