素材と料理
生でおいしい野菜を使えば、料理をしたって当然おいしいなんてのはよく聞く話。それは野菜に限らず、魚やフルーツなんてのもおんなじだろう。一部には、熟成させた方がおいしいよという食べ方もあるけれど、多くのモノにおいて、新鮮な物がおいしいという考え方がある。
とはいえ、じゃあ「料理」は必要ないね、とはならない。素材は素材、料理は料理として全く別カテゴリーだ。
別カテゴリーであるがゆえに、当然ながら道具も違う。野菜を栽培するための庭木ばさみなどといった道具と、料理に使うためのフライパンやフライ返し、包丁などを、同列に扱おうという人はいない。
素材は素材。料理は料理。
パソコンや、特にスマートホンが発達したことによって、人々は簡単にデジタル情報を手に入れることができるようになった。スマホで写真を撮り、スマホで音楽を聞く。
しかしそれでも、印刷された写真集にあこがれる人はいるし、パッケージとなってその曲順の並びに意味を持たせたアルバムやジャケットに価値を見出す人がいる。
それはもしかすると、写真集と言う形にすることにより、その一枚一枚はもとより、その物理的な重さや、写真の間の空間の置き方、その切り取り方、写真の並びに意味が出てくることを味わっていたりする。CDのアルバムになっていることにより、その円盤に刻まれているデザインをながめ、プレイヤーにかけるほんの一瞬の「儀式」をはじめとして、音楽を聴きながらブックレットを眺めるその所作に、意味を見出しているところがある。
曲のデータだけがあればよいのではない。写真のデータがあればよいのではない。それをどのくらいのサイズで印刷するか、どんな紙質に印刷したのか、その曲が入ったジャケットをどんなデザインにしたのか、物理的に形があることを利用してデータだけではなしえないどんな価値を持たせたのか。さらにはデータの並び順にも意味がある。写真の順序、曲の順序には意味がある。それは素材単体では意味をなさない。物理的な順序に意味がある。そしてそうした価値を見出している人がいる。
以前、アナログ時代にはこうした価値を、作る側も使う側も意識することはまずなかった。しかしそれが明確に意識できる時代になったことによって、その境目/差異を明確に意識し、価値につなげることができる事が重要な認識となりはじめた。
デジタルだアナログだと騒いでいてもしょうがない。それは、生の素材と料理とをくらべているに近いのではないだろうか?どちらにも意味がある。そしてどちらも大切。人間に、デジタルプラグで、デジタル情報を流し込むことでそのデータを、映像を、音を味わう時代が来ない限り。