低効率を目指す理由

長距離走や、かけっこなどで、

「ここがゴールでーす」

と示されたところに向かって、皆が一斉に走り出すとしよう。

 

そしてやっとそのゴールに到達しそうになった時、

「実はゴールが変わりましたぁ。ゴールはあっちに見えるもう少し先になりましたぁ!」

とルールが変えられたらどうなるか?

 

とっても大目に見て、一度くらいならば、「えぇっ!」と思いながらも、皆は走るかもしれない。が、それも二度三度起きれば、皆は当然、一生懸命走らなくなるだろう。

「どうせまた変わるんだ。適当に走ろう。身体をこわさない程度に…」

 

任された仕事を一生懸命やって、締切よりも早く提出したりする。と、大抵多くの場合は、「じゃぁついでにこれもやってくれないか」と追加の仕事を振られたりする。

仕事を与える方の意識は、良い方に捉えれば、「学ぶ機会を与えて早く成長してほしい」と思っているかもしれない。

が、当初以上に余分に振られた方としては、「げっ、早く終えて損した。次からはギリギリで出そう」と思うかもしれない。そう、効率を下げる方向に思いを向けるかもしれない。

 

だからと言って助け合ったり、互助をないがしろにしようと言うつもりはない。手が空いている人は、弱い者を助けることは重要な事。ただし、その意識がない人、そうしたイメージを持てない人が居た場合、それを「的確に伝え、理解させなければ、逆に作用することがある」のがめんどくさいところだ。

 

そして結構多くの場面で、こうした互助の意識を持つ善意の行為を悪用して、ギリギリまで仕事を振り向けることにより、善意を踏みにじってうまみを得てきたものがいる。だからもうそんな損はしたくない、言われたギリギリでやるというのでお茶を濁そうという考え方がはびこる。

 

悪がのさばり、一部の小ずるいやりかたばかりが見かけ上の成功をかっさらう。そもそも信頼がないところに信頼を生むことがどれほど大変か。信頼醸成をどうやって克服し、突破していくのかが、求められているのでは。

 

でも、そもそも国の情報やマスコミの情報でさえ、昔以上に信じられなくなってきている昨今だから、もう元には戻らないのかな。

悲しい。