責任の対価、そしてそこへ至る

春だ。多くの新たな組織、新たな学年、新たな学校が始まる季節。

そんな中で、新たな役割を仰せつかる人もいるだろう。

 

会社や組織の中ならまだましだ。すべてとは言わないが、それなりの責務を任されることになれば(なかなか見合っただけの…とはならないが)それなりの対価、給料への上乗せが期待される。

 

それに比して、ボランタリーな組織において、たとえば地域の自治会、PTAなど。そうした集まりのリーダー的役割は、当然のことながら対価としての金銭はまずない。が、だからといって「リーダーなし」に進められるものでもない。であるがゆえに、日本人の多くが「やりたがらない」。結果逃げ回る、押し付ける、理屈をつけてできるだけやらない方向に進みがちだ。

 

だが、考え方によっては、そうしてリーダー的地位に至れば、様々な決定にかかわることができる。大きな権限はなくとも、その場を仕切るファシリテーター的役割を担う事にもなる。(これだけがそのポジションの意味付けではないけれど)場を仕切る役割は、それらをコントロールするポジションにもなりえる。

とするなら、そこに立てば、それらを「より良い形」に進めていくために采配を振るえるポジションでもある。

 

会社なら、責任が増すことで給料が上がる事につながるだろう。だがボランタリーなそれにおいては、もちろん責務もゼロではないけれど、自分が思い描いた方向に引っ張っていくことはできる。もちろん私利私欲のためではなく、その組織が担う責務において、の下で。なので、対価はまずない。

とすると、そうして逃げてきたその組織は、どうして逃げるほど嫌いだったのか?いや、参加すると面白い、参加したくなるような何かに変えることはできないのか?

 

ただ、これにしても(このBlogでよく書いているように)考えることが必要だ。どうしたいのか、どうなりたいのか、そのためにどんなステップを踏めばいいのか?

理想とする形が描けていなければ、想像できていなければ、考えられていなければ、そこには進めない。理想が描けていたとしても、そこに一足飛びに行けるわけはなく、そこに到達できるためのステップを考えなければならない。

やっぱり「考えること」に行きつく。

久しぶりに「考えるための行動」も必要かな。