絶対?絶対!

状態としての「絶対」はあり得ないだろう。数学的論理の世界などなら別だが、現実世界としての「絶対」という状況はあり得ない。たとえどんなに小さくとも、予期せぬ状況に陥るという可能性を秘める。

 

とはいえ、世間では「絶対」という言葉が躍る。

「お客さん、絶対お買い得ですって!」

「あの映画、よかったよぉ。絶対見た方がいいって」

 

他にも

「絶対当たるの?ほんと?」

「絶対おいしい?」

「絶対安全?」

などなど、論理的にわかっていたとしても、リズムや勢いとして“絶対”という言葉は便利だ。

 

「絶対?」と聞いて、「絶対!」と返されれば、それはもう手に入れるしかない/行くしかない。が、当然のことながら万人に対しての「絶対」事由は当然あり得ず、あとから不平不満が出ることも少なくない。

 

と考えると、実は“絶対”という方の意味合いは、「負うべき責任をあなたに負わせるよ、大丈夫?」という宣言ともとれる。

「絶対です!」という方は、意味としては「確率95%は満足しますよ」という意味として使っている。けれど「絶対?」と聞く方は、「確率100%?もしもそうじゃなかったら、あんた責任取んなさいよ…!」というニュアンスに近い。

あり得ないらしいけれど、やはり万が一はあり得る。その時には責任を取らせたい。どんな小さな可能性も排除したい。

 

 

まぁとは言え、ここ何十年も、「絶対とは決して言えません。が、まずおこることはありませんから。」として、言葉としては「絶対」を使わずとも、実際は100%おこりえないとして安全対策がなおざりにされていた施設など、工学出身者としては決してあってはならない事もおこっているし。

 

そんな、「絶対」でなければならないほど、社会がマージンやリスク対応への余剰を、あちこちから取り除いている現状。意識している/していないにかかわらず、「絶対」という言葉を通じて、“リスクの押し付け合い”になっている側面を感じる。