最高に効率化されていることの意味

昨今の日本の仕事におけるキーワードは働き方改革であり、その目指すものは高効率化だというのは、たぶん異論がないところだと思う。

そもそもこの「高効率化」という言葉自体なのだが、現場では「時短」のみが目指されているだけになっていないか…というのはまた別の機会に書くとして、今回はこの効率化の側面をとらえたい。

 

高効率化、ということは、無駄がないということ。無駄がないという事は、すべての作業がすべて無駄なく「今の仕事を成し遂げるためだけ」の作業に直結しているという事。

 

だが、考えてみよう。世の中には「サプライズ」というのがあるわけで、それが「絶対に起きない世界」である時のみ、「最高の高効率」で動くことができることになる。サプライズに何も備えない…わけにはいかないでしょ。裏返せば、何かのサプライズがある現実においては、「現実のサプライズへの備え」が必要になる、ということ。備えのための行動、作業が必要になるはずだということ。

その視点が抜けた、万が一の状況への対応を考えた備えすら削った上での「効率化」になっていないだろうか?特に、人の命に直結しそうな仕事、列車や飛行機の運行にはじまり、そのほかにも医療等々も含めた、様々な人命にかかわる現場にまで「効率化」を追及していないだろうか?極限の「ワンオペ」などその極みではないのだろうか?サプライズ時には、以前の体制のようなサポートを切り捨てている…という効率化。

 

たぶんそんなことを言ったところで、そもそもそんなサプライズ、リスクをどのぐらい許容するのか、など、「未来のこと」について議論したところで、その絶対の正解などないわけだ。

だが、確実に「何かが起きる」のは事実。そしてそれが起きたときの対処が「まずかった」際の責任を「あとで取るだけ」でいいのか?ということ。これこそがリスクに対する付き合い方であり、リスクに対する備え。

 

社会的にどのくらいリスクを許容するのか、起業的にリスクをどう考えるのか。「そのコンセンサスがない」というのが、たぶん一番の問題であり、一番のリスク要因なような気がしている。