嫌だと言える幸せ
○○ハラスメントという言葉が認知され始めて、もう10年は経っているだろうなぁ。
ネットへのアクセスが誰もが自由にでき始めた当初は、まだホームページということで、特殊な記法でサイトのページをひとつひとつ書かなければ、そもそも自分の意見など表明できる環境にはなかった。
それが、最近では掲示板はもとより、つぶやきやBlog、SNSといった形で、誰もが簡単に自分の意見を表明できる世界。
そんな世界になったからこそ何でも言える。何でも書ける。だから、好きなことは○○ですと表明する人もあれば、自分は○○が嫌いだと表明する人もいる。本当に千差万別。自由に意見を言っていい。ただし、そこはいわゆる街の落書きレベルではない。そう見えたとしても、実はものすごく人通りの多い、世界の人が行き交う街のメインストリートと、何も変わらない。
ネット以前の世界では、そうした意見を大多数の人々に向かって表明できること自体が非常にレアなポジションであり、そのため、一部の人の意見が代表されて、日常で話題になるのが関の山。
しかし今ではそうしたネットの力によって、嫌なものはこれだとか、こんなひどいことがといった、昔なら取り上げられなかったような些細な状況まで拾い上げられる。
確かに、そんな中には、自分の意見と真っ向から対立するものも出てくるだろうし、自分が気に入らない意見が目に入って、気分が悪いことも出るだろう。
でも、たぶん、お互い様。
万人に好かれるなどというのは夢でしかなく、すべての人の意見を無条件に受け入れる必要もない。
それらに、昔と同じように「自分は嫌いだ!」と意見を持つことは自由だけれど、それを、“拡声器”を通じて、そんじょそこらでがなり立ててもよい、という権利は、昔から誰も持ち合わせていなかったはずだ。
ネットは拡声器だ。ここでつぶやいたこと、ここで表明した意見は、瞬く間に地球上に広がる力を持っている。それでも、ネット上で嫌いなものを見つけた、ということすら、書き込むことは自由だ。
ご自分の意見は持っていただいて結構。自由な世界だ。それをぼそっとつぶやこうが、それは誰でも自由。しかし、“拡声器”をもって、そこらじゅうで大声でがなり立てるのは、迷惑以外の何物でもない。嫌だ嫌だ、気持ちが悪い、こんなネガティブスピーチばかりが拡大される世界は結構つらい。
小声でも、自由に意見を言える世界に、もう一度憧れている。