成長のキャッチボール
自分が成長するということを強く意識している人は、強い。ある意味、成長しなければという強迫観念にも近い何かに突き動かされる。
いや、特別なことをしている…とも限らない。ギラギラしている人ばかりのような印象を持ちかねないのだけれど決してそうでもなく、穏やかに、人当たりが柔らかい人であったとしても、強い成長意識を持っている人はいる。
それは行動によって成長を体現しよう、体感しようとしている人かもしれない。それは、経験、体験を通じて成長を得ようとしているかもしれない。
けれど、そこに、物理的強い力や、衝撃は、必ずしも必要なかったりする。なぜなら、同じ体験をしていても、成長する人もいれば、そうではない人もいる。同じ学習をしていても、成長する人もいれば、そうでない人もいる。
それは、何を受け取っているのか。何を感じ取っているのか。いわば心や考え方としての受容がなされていない、受け入れる準備ができていないにすぎないのではないだろうか。
キャッチボールを考えてみる。いくらボールを正確にその人に投げたとしても、受け取るつもりがある人でない限り、ボールをつかむことはできない。どんなに正確にその人の近くに投げたとしても、目の前に転がって来たとしても、ボールはその人は掴み取らない。
反対に、ボールを取りたい意思があれば、少々自分の位置からずれている者であったとしても、自分から取りに行く。無理な姿勢だってもちろん、ベストポジションに入ってがっちり受け止めるつもりで走りこむ。
成長できないのではない。成長しようとしていないんだよ。
なかなか成長しないのは、ベストポジションで受け止められていないだけだ。
小さい時には、いっぱいボールは飛んでくるけれど、大きくなったら、ボール自体滅多に飛んでこない。いいポジションで受けるつもりでいないと、そもそも球数が減っている。