みんなで動く

この国はみんなで動く国だ。オリンピックをはじめとして、ワールドカップサッカーなど典型的。大きな流れに乗って動かないと、おかしい者扱いされかねない。

バレンタインデーだってそうだろう。年末の紅白歌合戦や、年始の初詣などもそれに近い。4月に一斉に入社式、入学式なんてのも、「安心してみんなで」同じ行動をする。安心の根拠は「みんな」だ。

 

みんなで同じ行動をしていれば、少なくとも自分の前後左右を見回している限り、浮くことはない。同じ流れに乗っていると言える。

それは、みんなで動いて来たことで、そんなに間違ったことにはなっていなかった(だろう)という過去の経験による刷り込みもあったんじゃないだろうか?

 

でもここ20年で、過去に倣っていると縮小均衡に陥ることを知った。いや、頭では分かっているのだと思うけれど、なかなか行動の変化に結びついていないところはある。これは根拠が崩れていないだろうか?

それでも、過去と同じことをしていて、すでに窮地に陥らんとするところから、徐々に行動が変わらざるを得ない。なぜなら、みんなと同じ行動をできる余裕がない、同じことをし続けることが、実は終わりに直結しているから。

 

みんなで動く事ができなくなり、ここに行動が変わらざるを得なくなってきている。それをおかしな状況とみるか、それを受け入れるか。そこでまた是正バイアスが強烈にかかるのか、かからないのか。