その前進は

普通に生活ができている…と思っている人々は、大なり小なり今が安定だと思いがちだ。さらに大きくなってやるとか、今に全く満足していないような人は、少しでもよりよくなりたいと前進しようと努力する。けれどそれさえも、毎回毎回できないということを思い知らされ、阻まれる経験にあい続けると、いつしかあきらめ、少なくとも今を保ちたいと思いだす。今より悪くはなりたくない。

そうして本当は、ある瞬間において「現状を打ち破れる」瞬間が来ていたとしても、その瞬間をとらえることなく、現状維持、あきらめの行動をとり続ける。

 

子象のうちに足に鎖をつけて、逃げ出せない状況を作り出せば、その象が大きくなって、鎖など簡単に引きちぎれる力をつけていたとしても、もはやそこから逃げよう、などと言う考えすら作り出さなくなるという。

 

少なくとも今の環境で生存し続けている事実があり、そこから抜け出したほうが明らかにメリットがあるとすぐに理解できる場合でない限り、そちらに動き出そうとしない。さらに人間の世界でいえば、社会はかなり複雑になり、すぐにわかるようなメリットを感じられなくなっていることが一つ。さらにさらに、メリットが分かったとしても見えないデメリットが含まれているリスクの大きさや影響度合が分からなければ、なかなかそちらに踏み出せない。

 

何か今と違うことに踏み出すことにより、より良くなる可能性がそこに潜んでいるのはもちろんだけれど、今より悪くなる可能性もはらんでいる。人は今よりも自分のレベルを落としたくない。落ちたくないと思っていればいるほど、リスクを取りたくないという力が働く。

 

 

ただし、「それ」が失ったところで実は大したことはない、すぐに回復できたり、他に変わりがいくらでもある“ということが理解できていた”としたら?チャレンジする確率は今より上がるだろう。

ほんとうにそれは現状維持をして守り続けるほどの価値あるモノか?失うことで取り返しがつかなくなるものか?チャレンジする/させるためには、よほどの無謀者は別にするとして、普通はそうした「理解」があってこそのチャレンジ。何も知らない、よくわからないからこそ「挑み」もしないし「現状打破」もできない。今がどういう状態なのかを理解することなく進んでいるのは「彷徨」にすぎない。