問いを立てる訓練

日本人における教育のほとんどは、立てられた「問い」をどのように解決していくか?というところに多くの力がさかれている気がする。であるがゆえに、何かにぶつかってもそれをなんとかこなしてしまう、解決してしまうという力量は素晴らしく。であるからこそ、そうした力が、人の力、会社の力、国の力として大きく世界に貢献しているところはあるんだろう。

 

ところが、それが成熟した社会になってくれば来るほど、通常ぶつかるような問題にはかなりの解決策が見出されていたりして、あらためてそれらを解決する力を発揮せずとも、過去の経験や、パターンで、解決する方法が提示されてしまっていたりする。そうした時代においては、むしろ「問いを立てる事」の方が価値があるとされることがある。

 

簡単な「問い」ではいけない。良質な「問い」でなければならない。これがとても難しい事であったりする。それこそ適切なむつかしさ、適切な分解された知見に基づかなければ、問いが大きすぎれば誰にも解けないだろうし、問いが小さすぎれば簡単に解けてしまって意味がない。

後者はなかなかないのだけれど、前者はいくらでもぶつかることがある。ということは、大きすぎる問いを適切に分解する訓練、分解できる知見を兼ね備えていないことには、問いを立てられない。

 

日頃からいろんなことを見、学び、知識として蓄えている人がたくさんいる。それらをどの場面でどのように使うか、使いあぐねている人、使いきれていない人が、自分を含めて何万人も存在している。でもそういう人たちの力を、ほんの少しだけ力を出すことができれば。小さい力でも大人数がそうすることで大きなパワーを生むことができるのはネット時代の醍醐味だ。

 

問いを立てる訓練、ツール、知見等々。それができれば、もう少し世界が動き出すんじゃないかと言う気がして。