説明すること伝えること

あなたはどちらを意識しているだろう。人に何かを伝えることと、説明することと。

 

そもそも「伝える」ことは難しい。いまさら伝言ゲームを引き合いに出さずとも自明の事実。そこにある一文、物事をただ伝えるだけでも、何人かの人を介するだけで簡単に歪んでしまう。それほどまでに単純に伝えるということは難しい。

 

さらに伝える内容が正しく理解されているか?となると、それはさらにハードルが上がる。言葉として伝わっていたとしても、そこに内包される意味が伝わっているかどうかは別だ。

 

伝えることをお願いされる際には、自分で言葉を考えるのではなく、伝える言葉そのものをもらうことができる場合が多い。それはたいてい、誤解が生まれる可能性をできる限り排除した、シンプルなものが多い。「○○さんから、“××で15時に待ち合わせだから遅れないように”とのことです」と言った形になる。

ところが、自分が目で見た事象を、その当事者でない者に伝えようとすると、そこには説明的要素が不可欠になる。よくわかるようにいくつかのポイントをかみ砕いて情報として付け加える。それによって伝わる度合いが変わる。ようするにその状況をどのような言葉に置き換えるかという事象の言語への変換関数が、より共通のものを使わなければ、相手の頭の中においてその言葉から事象が変換されてデコードされるさいに、エラーが起きる。

 

そうした、いかに共通の、そして簡便な「共通関数」を備えているか。それを教養と呼んだり、コモンセンスと呼んだりもするけれど、ときにそれは年代により共通に用いる初期値が違っていたり、そもそも暗号方式が違っていたりするのだけれど。