目立ちたい/目立ちたくない

周りから抜きん出たい、何とか目立ちたい、一旗あげたいなんて人もいるだろう。

反対に、絶対に目立ちたくない。おとなしく、目立たなくしていよう、と考えている人もいるかもしれない。

しかし、目立ちたくない、“だからおとなしくしていよう”…というのは、ちょっと考えてみる必要があるんじゃないだろうか?

 

目立つとはなんだろうか?目に付く、目にとまる。それはその周囲と振る舞いや色、形等々が違うからこそ目立つのであって、決して「おとなしい」から目立たないとは限らず、かえって「おとなしくない」からこそ目立つシチュエーションもあるはずだ。

 

ダイビングなどをしたことがない人でも、ダイバーが撮った水中からの写真なんてのを見たことがあるだろう。海底から海面を眺めたそこには、人や魚、もしくはボートの船底が、黒々とした影となっていつっていることがある。

もしもここで「目立ちたくなければ」その陰に見える部分、黒く見えるであろう部分を光らせ、海上の色、光を放つ、自発光することで存在をばれにくくするということもあり得る。事実、そのような手法で身を守る魚もいると聞く。

 

人も、もしも周りがワイワイと騒いでいる中にいるなら、目立ちたくなければ「適度に騒げ」ば、周囲と変わらずに、溶け込める。そんな中で一人静かにじっとしている方が、かえって目立つ。

反対に、周囲がシーンとしている中にいる場合には、そもそもその環境に溶け込むがごとく、おとなしくしていることが目立たないことだ。たいていの日本人がそうするように。

 

 

要は、周りと違う何かを放っていることこそが目立つこと。それは単なる振る舞いに限らない。その周りと違う振る舞い、行いの方向性こそが重要に。

違いはポテンシャル。その差異が何かを生むエネルギーになる。

それを周りにアピールするためには、周囲と違う必要がある。