思想と行動

思想無き行動は混乱を生み、統一的対処、一貫した行動規範を欠く。

一つの行動ならまだしも、複数の行動の論理的裏付けが乏しく、その方向性、意味、最適性を疑うことにもなる。

 

行動無き思想は単なる世迷い事とも捉えられ、理解されることが少ない。

何を今頃眠い事をほざいているのか、それを「言う」ことで何をしたいのかと。

人によっては、言葉の力を駆使して周りを行動させる力を持つものもいるだろう。しかし、多くの人の場合、そのような力は持ち得ず、自らの行動で、自らの背中をもってして、考えるところを示す以外に方法がない。

 

要するに、行動だけでもダメ、思想だけでもダメなわけだ。

…などというと、多くの人がこう言う。

おれは頭はないけれど体力には自信がある。が、そういうやつではだめなのか、と。

 

思想はそれほど難しいものではないはずだ。信じる物事、信じる何か、一貫した考え、筋の通った価値観…。それらが、そのあなたの上と対立したときにおいても、どれだけ一貫して保っていけるか?それは上司かもしれないし、世間かもしれないし、ネトウヨかもしれない、教授かもしれない…。そこと対峙する事になった時には、耐えたり、忍んだりする必要があるかもしれない。簡単に折れてしまっては一貫とは言えない。

そこに取り込まれそうになった時、どう対処するのか。いったん取り込まれた“ように見せかけて”実はそうではないのか、真正面から反対してみるのか、まるまるコロッと裏切ってみるのか…それも戦略。そんなのはずるい?ですか?いえ、生物界にはそんな動物、微生物、ウィルスに至るまで、そんな戦略はいくらでも存在しますから。

あきらめずに自らの思想を貫く行動をし続ける者こそ世にはびこる。たとえば、自らの形を少しずつ変え続けて生き残るというのもそのひとつ。

「はびこる悪」に“戦略”を学ぶってのも、ひとつ。そこから思想を学んじゃいけないんだけどね。